≪デボーションの友≫2024/2/5-10
- 2025.02.23
- ディボーションの友
2024/2/5(月) 担当 高谷清師 ルカ6:20-26 賛美 聖歌(総)196 聖歌 229
ルカ6:17-49はマタイ5:1-7:29と内容がよく似ている。マタイには「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」(マタ5:1-2)と記されているところから山上の説教と呼ばれ、ルカには「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。」(ルカ6:17-18)と記されているところから平地の説教と呼ばれている。双方ともその対象は弟子-イエスを信じている人々―である。天使は人々が寝静まった中、荒野で夜を徹して羊の番をする羊飼いたちに対して「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ 2:10-11)と告げた。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:12)と語っている。言が肉をとって世に来てくださった時から新しい時―恵みの時が始まっている。しかしそれはすべての人々に告知されているのではなく、イエスを信じる人々に対してのみ、告知されているのである。全ての人々に告知されるのは主が再臨される時である。それ故、この箇所に告知された価値観は世の価値観とは異なる。何時も主に在って生きる者となろう。
2024/2/6(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記3:1-3 賛美 聖歌総合版621聖歌585
エジプトでのイスラエルの人々の状況を全く知らないモーセはエトロのもとで普段通りの生活を続けている。いつものように荒れ野で羊を飼っていたモーセは神の山に来た。この場所で何か特別なことが起こるとは期待もしていなかったようである。しかし不思議なことが突然起こった。柴が燃え上がっているのに燃え尽きない。モーセは好奇心に駆られて近づいている。何が起こっているのか全く理解していない無防備な姿である。しかし聖書ははっきりとその炎の中に主のみ使いが現われたと語っている。神ご自身はモーセの元へご自身を顕されたのである。
神は御心のままにご自身を顕される。もちろん人々の祈りに応えて語り掛けて下さるのだが、時には私たちが全く予期しないところで、予想外の方法で顕れて下さる。神にとってはすべての場所がご自身のものであり、すべての場所をきよめて人に語り掛けることがおできになる。主の語り掛けを見極めることが出来るよう、主を待ち望もう。
2024/2/7(水) 担当 高谷清師 ルカ6:20 賛美 聖歌(総)490 聖歌 472
イエスは「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」と教えられる。この箇所をマタイは「心の貧しい人々」と記している。その相異は著者が記した時の教会状況の相違によるのであって意図されているのは同じ人々である。「貧しい人々」についてヤコブは「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」(ヤコブ 2:5)と記している。使徒言行録は「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(使4:32-36)と記している。貧しい人々とは与えられた富を神に帰し、自分の欲望充足のためではなく、神の栄光の為に用い、謙って歩む人である。
2024/2/8(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記3:4-6 賛美 聖歌総合版319 聖歌332
モーセは荒れ野で見た、燃えてはいるが燃え尽きない柴に興味を惹かれて近づく。突然神から声をかけられてもなお出来事の本質を理解していないモーセであったが、神はそれを咎めることなくその場所が聖なる場所であることを知らせ、ご自身がモーセの父祖の神であると啓示してくださった。モーセはかつてエジプトで同胞から拒否された身であった。ミディアンに逃れてからはイスラエルの人々からも神からも遠ざかっていた。しかし神は孤独に過ごしているモーセにも目を留め、神ご自身の御心に従って語り掛けて下さった。モーセは父祖の神から語られたことを悟った時に神を恐れた。
思わぬ時に神が私たちに語り掛けられることがある。神は親しく語り掛けて下さる方であると同時に聖さを持ち、恐れるべきお方である。神が私たちにいつ語り掛けて下さっても神への畏れと愛をもって応答できるよう、み言葉を通して神を知ろう。
202/2/9(金) 担当 高谷清師 ルカ6:20-26 賛美 聖歌(総)611 聖歌 576
続いてイエスは「今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」と教えられる。ルカは福音書16章に「金持ちとラザロ」の物語を記している。ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。一方、ラザロという、できものだらけの貧しい人がいた。彼は金持ちの門前に横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。ラザロは死んで天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。死後、彼は陰府に送られ、もだえ苦しみの日々を送ることになった。金持ちがアブラハムに憐れみを求めた時、アブラハムは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」(ルカ16:25)と答えている。又。黙示録には御国の到来の日について「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙 21:4)と記されている。科の日を仰ぎ望みつつ、信仰によって歩もう。
2024/2/10(土) 担当 高谷清師 ルカ6:20-26 賛美 聖歌(総)786 聖歌 691
続いてイエスは「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」と教えられる。パウロも「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(Ⅱテモ 3:12)と述べている。イエスがナザレで伝道された時、ナザレの人々は受け入れず、イエスを殺そうとした。大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は使徒たちを迫害した。フィリピの高官はパウロ達を鞭打ち、投獄した。ステファノは「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(使 7:51-52)と語っている。しかし、イエスは「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(ルカ18:29-30)と語っておられる。そして主は「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ 12:5)と語っておられる。真に恐れるべき御方を恐れ、真実な信仰生活を送ろう。
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