≪デボーションの友≫2024/2/19-24

2024/2/19(月) 担当 高谷清師 ルカ 6:27-36  賛美 聖歌(総)538 聖歌 520

 イエスは「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と語っておられる。語っておられるお方は「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1:33)と預言されたお方であり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4:21)と話されたお方であり、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られたお方、ソクラテスやアリストテレス―人間から出た者―ではなく、神から出たお方、この方によって世に神の国をもたらすお方の言葉である故、信仰と従順をもって聞かなければならない言葉である。

 このお方が「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と語られる。イエスは「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハ5:18-19)。と語っておられる。世は神の国に敵対する。キリスト者は神の国の民とされた者である故、世は敵対するのである。しかしその敵を愛しなさいと主は語られるのである。

2024/2/20(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記3:10-12 賛美 聖歌(総)616 聖歌580

 神の召命に対してモーセは「わたしは何者でしょう」と答える。自分は適格だろうかという疑問を持っている。エジプトに居た頃、同胞を助けようとして拒まれて逃げて来たモーセにとって、神の召命は予想外だっただろう。過去の失敗を考えれば、この応答には自信を失ったモーセの本心が見える。神はこのような状態のモーセを召し、必ずモーセと共にいると約束される。モーセは自分の能力に頼らなくても良い、共におられる神に委ねればよいのだ。ただしそのしるしは将来、民が導き出されて働きが完成した時に、この場所でイスラエルの民が神を礼拝する時に初めてあらわされる。

 神は無力さを自覚しているモーセを選ばれた。モーセは自分ではなく神の臨在に頼って神に仕える。しかし神が共におられることは現時点ではただ信仰によって知ることが出来る。呼びかける神への信仰に立ち、働きを全うした後に神が真実であったことを初めて確認できる。私たちも神の力によって奉仕しよう。信仰によって神の臨在を感謝しつつ。

2024/2/21(水) 担当 高谷清師 ルカ 6:27-36  賛美 聖歌(総)465 聖歌 453

 主は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と語られる。このことについてヴァルター・リユテイは

「愛はあらゆる敵意よりも強く、親切にすることは傷つけることよりも力があり、祝福は呪い(新共同訳は悪口を言う者)を覆い、執り成しの祈りは侮辱に打ち勝つということです。しかし、それはまさに、私たちがキリストに目を向ける限りにおいてのことです。私たちが自分自身に目を向けるや否や、私たちは悪魔やこの世や肉の力のゆえに絶望せざるを得ないでしょう。というのは、私たちは実際に陰府よりも強いものではないからです。キリストは陰府よりも強いお方です。キリストの御国はこの世の国々に優っており、それどころか私たちがすでに見たように、悪魔のあらゆる力や栄華よりも強いお方です。キリストが主、キュリオスであられるがゆえに、「あなたがたの敵を愛しなさい――」と言われるのです。この四回繰り返される呼びかけは、キリストの御国のすべての市民にとって、すでに判定が下されており、すでに勝利が獲得されている戦いに加わるようにとの励ましの言葉なのです。この事実と反対に見えるいかなる外見をも物ともせず、粘り強く倦むことなく、この事実から離れないことが大切であるがゆえに、それは信仰の戦いなのです。」(主イエスの言葉と働きP553』新教出版社2020)

と述べている。敵を愛し、憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りることは肉の力によっては不可能であり、聖霊に満たされることによってのみ可能である。

2024/2/22(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記3:13-14 賛美 聖歌(総合) 聖歌553

 モーセは自分が何者かと問いかけた後、今度は神の名を尋ねる。先祖の神々がモーセを呼び出すにあたってさらにどのようにご自分を啓示してくださったのか、という民に聞かれたらどう答えればよいかと神に問う。日頃の人間関係でも名前を知ることは大切である。長年顔見知りの間柄であっても、名前を知らなければ距離を感じる。反対に短時間話しただけでもお互いの名前を知ればぐっと親しみを感じる。名を明かすことはすなわち自分自身を明かすことだからである。神はモーセに対して単なる先祖の神として以上に関わってくださった。あなたと共に居ると約束されたお方は「わたしはある」という神であると言われた。

 私たちが神の名を知ることは大切である。私たちが神を信じると言う時、日本の多くの人々が八百万の神を信じるということとは随分異なる。信じている神を、その名を通して個人的な関係の中で知っているからである。聖書を通してさらに多くの神の名を知り、神との関係を深めよう。

202/2/23(金) 担当 高谷清師 ルカ 6:32-35  賛美 聖歌(総)621 聖歌 585

 イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」と語られる。自分を愛してくれる人を愛する、自分によくしてくれる人に善いことをする、返してもらうことを当てにして貸す、これらは互恵主義の愛、取引としての愛であり、世の愛である。しかし神の愛は世の愛とは異なる。イエスは「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。」と命じられる。パウロは「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリ13:4-7)と述べている。神の愛に生きる者には大いなる約束が与えられている。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」と。そして「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と命じられている。神の大いなる愛の中に生かされている者として、神の愛に生きよう。

2024/2/24(土) 担当 高谷清師 ルカ 6:27-36  賛美 聖歌(総)63 聖歌 117

 ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-1)と述べている。パウロは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ロマ5:8-10)と述べている。イエスは十字架の上で自分を十字架につける人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ  23:34)と祈られた。愛の源泉、それはイエス様である。