≪デボーションの友≫2024/2/26-3/2

2024/2/26(月) 担当 高谷清師 ルカ 6:37-42  賛美 聖歌(総)631 聖歌 593

 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくためにユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来ていた大勢の弟子とおびただしい民衆が、山から下りて来られたイエスの周りに集まってきた。マタイは当時の群集について「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタ 9:36)と述べている。互いに裁き合い、奪い合い、他者を経蔑することで自分を保とうとしあっている人間の現実である。このような現実を前にしてイエスは「人を裁くな。」「人を罪人だと決めるな。」と教えられた。「裁く」とは判決を下し罰をきめることである。判決と処罰は人を高慢にすると同時に、適用した法規が自分自身をも無条件に拘束する。故に裁きはすべての人を罪に定める。パウロが「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23)と述べているとおりである。イエスは「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」「そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」と教えられる。裁きをやめる時裁きから解放され、人を罪人だと決めることをやめる時、罪人だと決められることから解放される。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:24)と述べている。裁くことをやめ、人を罪人だと決めることをやめる時、律法から福音へ、死から命へ移される。

2024/2/27(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記3:15-17 賛美 聖歌(総)713 聖歌655

 「わたしはある」という名を明かされた神は、さらにイスラエルの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言われる。先祖の時代から遠く隔たったモーセの時代にイスラエルの民から離れた荒れ野にいるモーセに語り掛けたのはほかならぬあの先祖たちの神である。エジプト人がヨセフのことを忘れるほど長い年月が過ぎ去っていたとしても、神はイスラエルを忘れることは決してなかった。そして神ご自身がモーセに現れ、モーセを通して神に語りかけ、関わりを持ってくださる。

 人はしばらく顔を合わせないと心が離れる。かつて親しくしていた人でも疎遠になり、忘れてしまうこともある。しかし神はご自分の民を決して忘れることはない。神からの語り掛けをしばらく聞くことがない期間が続いたとしても、神は彼らの神であり続け、顧み、民の苦しみをご覧になり、知っていてくださる。神は決してご自分の愛する民を忘れることのないお方である。神に覚えられていることを感謝しよう。

2024/2/28(水) 担当 高谷清師 ルカ 6:37-42  賛美 聖歌(総)111 聖歌 157

 主は続いて「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」と教えられる。これは36節の教え「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」の具体化である。そして主は「あなたがたも赦される」「そうすれば、あなたがたにも与えられる」と語られる。マタイによる福音書は「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」(マタ 6:14)と語られたイエスの言葉を記している。私たちが他者を赦す時、私たちに対する赦しは天の父から与えられる。私たちが他者に与える時、天の父は私たちに与えてくださる。しかも、押し入れ、揺すり入れ、―-基準をはるかに超え――あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる、有り余るほどのものを与えてくださる。そして主は「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」と語られる。物惜しみせず、豊かに赦し、与える者となろう。

2024/2/29(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記3:15-17  賛美 聖歌(総)617 聖歌581

 神がモーセにご自分を現わされたのには理由があった。それはモーセだけのためではなく、エジプトにいるイスラエルの民の苦しみをご覧になって、この時に民を苦しみから救い出し、約束の地へと導き上ろうと決心されたからであった。そのためにモーセを遣わすにあたって神の名を示し、神の権威によってこのことを成すように命じられた。

 モーセが今ミディアンの地で生活しているのは同胞から拒まれた結果である。神はそのような人を神の解放の業を行うためのリーダーとして選ばれた。簡単に民に受け入れられそうもないこのモーセを選び、遣わす時に、モーセのゆえではなく、モーセを通してイスラエルを導き出すと宣言される神のゆえに人々が従うための必要を既に満たされた。神が御業をなさる時、必要は整えられている。そのうえで働き手を召し出し、御業を行われる。神の働きが私たちに委ねられたなら、自分の能力ゆえではなく、神のゆえに事が行われることを知り、主に委ねて仕えよう。

202/3/1(金) 担当 高谷清師 ルカ 6:37-42  賛美 聖歌(総)607 聖歌 573

 イエスは「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」語られる。イエスはファリサイ人に対して「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハ 9:41)と語っておられる。盲人である罪人の道案内が出来るのは神だけである。続いてイエスは「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」と語られる。「十分に修行を積めば」と言う言葉について小副川幸孝師は

「これは「整えられる」とか「訓練をされる」とかいう受動態の言葉で、人が自分で人間的な精進や努力をするという意味ではない。(中略)人を正しく判断される神と、その神の御心を体現されるイエスによって、人が「神の前」に立ち、そこで自らが整えられていくときに、人はその師と同じように正しい判断へと導かれるようになる。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P212日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。」「イエスは主である」と言う信仰告白に立ち、自らを空しくし、聖霊に満たされる時はじめて魂の導き手となることができる。

2024/3/2(土) 担当 高谷清師 ルカ 6:37-42  賛美 聖歌(総)428 聖歌 426

 イエスは「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」と教えられる。「おが屑」とは小さな違反である。「丸太」とは大きな違反である。ルカは18章にイエスが語られた「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを記している。イエスは自分は義人だと自認するファリサイ人に対して「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と語っておられる。自分の罪、それは私たちが虚心に神の前に立つ時はじめて見えてくる。神の前に真摯に立ち、示された罪を悔い改め、十字架の血潮による許しに与り、信仰と愛によって歩もう。