2012/3/26-31

 

2012/03/26(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌 511
 更に著者は「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」と述べる。モーセの忠実については「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った(出 40:16)」、「わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている(民 12:7)」と記されている。主イエスについては「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に(黙 1:4-5)」と記されている。お遣わしになった神に忠実であられた御子に遣わされた者として、私たちもいかなる時にも御子に忠実であろう。
 

 

2012/3/27(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13:15後半-14:23 賛美 聖歌487
 今やサウル王の陣営に残されていた兵はわずか600人であった。その上鍛冶屋はすべてペリシテの下にあったのでイスラエルは戦いのための武器すら十分に持っていなかった。この状況で、サウルの息子ヨナタンと、神に対して従順になりきれなかったサウルとの態度は対照的であった。
 ヨナタンは自ら従卒を連れてペリシテ人の先陣を襲った。この行動は一見無謀に見える。しかしヨナタンは神への信仰に立って行動した。ヨナタンは戦いにおいて最も大切なことは兵士の数ではなく、割礼の有無、すなわち神にささげられた者、神に従う者であるかどうかという点であると知っていた。またヨナタンは敵の言葉を通して神の導きを確認して進んでいった。一方サウルは最初は優柔不断であり、神の導きを求めかけたが途中で投げ出し、戦況が有利と見たら神の声を聞くこともなく飛び出していった。
 私たちは神に頼り、決断すべき時に正しい決断をしているだろうか。なすべき時に正しい決断をするその力は日々の祈りと神との交わりによって培われる。日々の祈りを大切にしよう。
 

 

2012/03/28 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:3-6 賛美 主をほめよ23(栄光、イエスにあれ)
 モーセもイエスも忠実であった。しかしモーセは仕える者として神と神の民に忠実であったのに対し、イエスは御子として、神の家の創造者として、また統治者として神と教会に忠実であられる。それ故にイエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしいかたである。
 聖書の中には偉大な信仰の指導者が記されている。モーセをはじめ、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ソロモン・・・・しかし彼らは神に召され、僕として神に仕えた人々である。しかしイエスは御子であり、神ご自身であり、その血潮の贖いによる神の家の創始者であり統治者である。私たちが栄光を帰すべきお方はイエスのみである。
 

 

2012/03/29(木)担当 高谷満世師 サムエル記上14:24-52 賛美 聖歌545
 ヨナタンの奇襲に始まる勝利の後でサウルは軽率に誓いを立てた。そのことを知らずに食べ物を口にしたのは皮肉にも神に従ってイスラエルに勝利をもたらしたヨナタンであった。ヨナタンは父の誓いについて聞いた時、あからさまに批判した。この中でサウルは主に祭壇を築き、信仰の形式において正しく行おうとした。さらにサウルは誓いを破った者がヨナタンであると判明した時に、定めに則って神がともに居てくださったがゆえに勝利を得ることができたヨナタンでさえ死刑に処すという決断をした。
 サウルは形式上は神に従おうとしていたのだろう。しかしその出発点が間違っており、また形を整えようとするあまり、真に神に従っていたヨナタンをさえ殺そうとする結果になってしまった。本当の意味で神に従うとはどういうことであろうか。宗教的な形を守ることが必ずしも完全であるとはいえないのではないだろうか。常に私たちの心が神の御心を求め、それを知り、従うことこそが求められているのである。
 

 

2011/03/30(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙3:3-6    賛美 聖歌539
 モーセが忠実に仕えた神の家族とはイスラエルの民であったなら、神の御子が統治しておられる今日の神の家族とは何であろうか。それは教会であり、教会を構成するすべての信徒たち、わたしたちこそ神の家なのである。著者はここで「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、」と条件を付けている。私たちを取り巻く状況は日々変化している。私たちの信仰は、動揺する現在的諸状況の彼方にあるものにしっかり繋ぎ止められていなければならない。もし見えるものだけを信じるなら、道を失い漂流することになる。パウロは「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである(?コリ4:18)」と言っている。目に見えない神の約束にしっかりと立って信仰の歩みを全うしょう。
 

 

2012/03/31(土)担当 高谷由紀子師 マタ14:22-27 賛美 聖歌591
 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせられた。夜になり船は逆風のために波に悩まされていました。弟子たちが難渋しているのを知って、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。それを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。主はすぐに彼らに話しかけ「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
 主は弟子たちと行動を共にせず、離れたところにおられても、常に彼らの状態を知り、必要な時には手を差し伸べてくださるお方です。クリスチャン生活にも予期しない病気、災害、信仰の戦い、等予期しない困難に遭遇することがあります。しかし主はそれらのすべてを知り「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と手を差し伸べてくださるのです。それ故、常に主に信頼して日々進みましょう。