2013/1/7-12

 

2012/1/7(月) 担当高谷清師 マタイによる福音書 7:24-27 賛美 聖歌201
 2013年当地方は厳しい寒さのなかではあるが、穏やかに明け、推移している。北日本では厳しい吹雪と降雪のなか、市民生活への影響と、多くの登山者の遭難が伝えられている。神の守りをお祈りします。世では迫りくる危機回避のために不人気な政策をあえて推進した前総理に代って、国債大量発行、無制限の債務積み増しを掲げて登場した現総理のもと、株価上昇、円安に沸いているなか、心ある人々は忍び寄る財政破綻とインフレの影に心痛めているのではなかろうか。現総理と同じ会派に属し財政再建の必要性を訴え、20年危機を訴えながら高齢のため引退された元財務大臣の心中はどのようなものであろうか。これが2013年を迎えた私たちを取り巻く環境である。聖書は『人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません(?テサ 5: 3)』と言っている。これはもちろん、終末について記された御言葉であるが、日本に迫っている危機についてもいえることではなかろうか。このような中に在って私たちの立つべき土台は岩、即ち神のことば、イエスキリストでなければならない。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない(マタ 24: 35)」からである。
 

 

2013/1/8 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:21-25 賛美 聖歌 591
 驚くほどのダビデの確信に満ちた言葉である。「罪を犯したことのあるダビデが、どうして自分の清さを主張できるのか」と驚きを禁じえない。ダビデは罪を犯したにもかかわらず、神に救われ、赦されたことを確信している。「清い」と主張するその言葉は、ダビデが過去において一切罪を犯さなかったという意味ではない。むしろこの言葉は、ただ神の憐れみにより過去の罪を乗り越えて、今ダビデと神との関係が本来あるべき秩序にかなったものだというのでる。神はダビデに目を留める義務はなかった。しかし神は、ただ憐れみにより、ダビデを神とのあるべき関係に立ち返らせてくださった。
 私達は自分が過去において罪を犯したことを知っている。そして今、赦されて、神との関係を回復されていることも体験している。にもかかわらず、義とされ、神の子とされ、御国の約束を与えられていることを忘れてしまうことがある。ダビデのように、恵みによって「御目の前にわたしは清い」(22:25)ことを確信しよう。
 

 

2013/1/9 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11:13-16 賛美 聖歌514
 アブラハム、イサク、ヤコブは彼らに与えられた神の約束に堅く立って、その信仰によって歩んだ。現実にその約束の実現を手にすることはなかったが、生涯にわたって信仰に立ち続けた。わたしたちは神が約束された御子によるあがないの御業の成就によってもたらされた救いに与かり、約束された豊かな恵みのなかに生かされている。しかし父祖たちはその恵みを体験してはいなかった。神の約束を信じてはいたが現実には寄留者であり、彼らはそれを自覚していた。アブラハムは「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです(創 23:4)」と語っている。アブラハムの信仰について主は「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである(ヨハ 8:56)」と語っておられる。
アブラハムは、約束されたものを手に入れることはできなかったが、信仰によって、はるかにそれを見て喜びに生きたとすれば、贖いの約束の成就によって恵のなかに生かされている私たちが不信仰に陥るならその責任はより重く問われるのである。恵みを感謝し堅く信仰に立とう。
 

 

2013/1/10(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:26-31 賛美 聖歌 423 
 神と人との関係は決して一方通行ではない。心を込めて神を愛し、いつくしむ人には、神は慈しみをもって応えてくださる。しかし、神を認めず、逆らい続ける者には、神もまた策略をもって応えられる。神は砕かれた心で、へりくだって主の前に出る者を憐れみ、救い上げてくださる。神の義は、神に逆らう者への裁きとして表される厳しい一面を持つだけのものではなく、心から罪を悔いて、へりくだるものを憐れんでくださる恵みとしても表される。
 私たちは義なる神の前に立つとき、厳しい神の義を見るだろうか。それともダビデのように、恵みに満ちた憐れみ深い神の義を見るだろうか。今日、神の前に、どのような心で歩むのか。それを神は見ておられる。
 

 

2013/1/11(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:13-16  賛美 聖歌622
 父祖たちが自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのは、彼らが故郷を探し求めていることを明らかにしている。彼らが捜し求めていた故郷は自分たちが出て来た土地のことではなかった。それは神の約束されたものであり、更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのである。この信仰によって仮住まいの者の受ける苦難に勝利したのである。
 主の十字架と復活によって主を信じる者は神の国の民とされた。この神の国について聖書は、主によって地上にもたらされたとともに、その完成は未来に属するものとして伝えている。即ち私たちの住む今の地上においては「空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」と言われるサタンの支配する領域と神の国とが混在し、キリスト者はそのはざまで苦しみを受けている。しかしパウロが「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(フィリ 3: 20)」と述べているように、私たちは神の定められた日に御国に入れられるのである。その日を望み、信仰に立ち、忍耐をもって歩もう。
 

 

2013/1/5(土)高谷由紀子師 コヘレトの言葉3:10−11 賛美 聖歌472
 「人生不可解なり」と言って自殺した青年がいました。人生は複雑であり、混乱しており、不可解であり、それ故無意味なもののように思えます。ここでは「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」と言われています。神は人をご自身に似せて造られました。それ故、人には永遠を思う心が与えられていました。神への似姿は堕落によって失われましたが、完全に消滅したわけではありません。人の心には依然として永遠を思う心が存在しています。しかしそれは不完全であり、神のみ業、御計画のすべてを理解することはできません。しかし神は私たちのために、ご自身の性格により、愛と善に基づくご計画をもって導いていてくださるのです。パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ロマ 8: 28)」と言っています。わたしたちは神の計画のすべてを理解することはできませんが善にして愛なる神を信じて歩みましょう。