2013/10/7-12

 

2013/10/7(月) 担当高谷清師 ?コリ1: 30-31 賛美 新聖歌225・聖歌447
 パウロは「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」と記した後に『「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』と語る。エレミヤは「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。(エレミヤ9:22-23)」と記している。十字架の贖いの御業によって主は私たちの義と聖と贖いとなられたのである。義も聖も贖いも自分の内には全く存在しない。それはキリストに結ばれることによってのみ、私たちのものとされる。それ故人は一切誇ることはできない。義となられた、聖となられた、贖いとなられた主だけを誇ることができるのである。

 

2013/10/8(火)担当 ラウジー満世師 列王記下5:8-14 賛美 新聖歌376 聖歌701
 ナアマンはついにエリシャの前までやってきた。重い皮膚病の癒しを求めていたナアマンは、エリシャが自分をどのように扱ってくれるかと、ある期待をしていた(5:11)。自国では地位も名誉もある軍人、ナアマンは彼の名声にふさわしい扱いを受けることを期待していた。そこには彼に対する敬意と共に愛情あふれる対応を期待する思いもあった。しかし、エリシャはナアマンに直接会うことすらしないで、ヨルダン川で七度身を清めよとだけ命じた。
 このような扱いを受けたナアマンは不服であった。彼の自尊心が傷つけられ、大変不愉快だっただろう。部下の前で面目を失ったかもしれない。時として神はこのようなチャレンジをわたしたちにも与えられるかもしれない。それでも神を信じて、自らの自尊心や体面にとらわれることなく、へりくだって命令に聞き従うときに、わたしたちは偉大な主の力を体験することができる。最終的に家来の言葉に心を開いて神の言葉に従ったナアマンもすばらしい。また、ばかげた要求と見えることを確信を持ってナアマンに告げたエリシャもまた神に用いられた。
 人がへりくだること、信頼すること、そのことを通して神は働かれる。主の御業を見たいと願うとき、信じること、へりくだることが求められている。

 

2013/10/9 (水) 担当 高谷清師 ?コリ2:1-2 賛美 新聖歌428・聖歌521
 パウロは「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と語る。パウロは先に「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです(?コリ1:23-25)」と述べた。当時のギリシャは学問、芸術が盛んであった。修辞学が盛んであり、人々は美辞麗句を駆使して演説を行った。パウロも博学の人であり、そのように行おうと思えば十分になすことができた。しかし、奇跡的な神の啓示によりキリストを知った時、パウロには、キリストの福音以外のものは一切価値を失った。それ故彼は「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」のである。
 世には素晴らしいもの、人々の称賛するものが沢山ある。しかしそれらはキリストには遠く及ばない。私たちが語り伝えるのは唯キリストだけである。

 

2013/10/10(木)担当 ラウジー満世師 列王記下5:15-19 賛美 新聖歌258 聖歌458
 勇気を持ってエリシャの言葉に聞き従ってヨルダン川で身を清めたナアマンは癒された。彼は肉体の苦痛から解放されただけではなく、この体験を通してナアマンは神を知り、救いを得た。肉体の癒しを経験した喜びにくわえて、彼は心からまことの神を信じ、そしてその生活が変えられた。なおもアラム軍の司令官として生きながら、異教の地にあって主だけを礼拝する生き方へと変えられた。立場上、職業上、どうしてもリモンの神殿でひれ伏さねばならないという状況で、彼はその行為を行いながらも心はまことの神だけを礼拝することが許可された。驚くべき神の配慮である。
 もちろん主を信じた者は偶像礼拝から離れてまことの神だけを礼拝する生活を求めていく。しかし、状況的にそれが即実現できないときもある。そんな中でこのナアマンに示された配慮はもっとも大切なことは表向きの行動ではなく、心が誰を礼拝すかであるということを思い起こさせてくれる。

 

2013/10/11(金) 担当高谷清師 ?コリ2:3-5  賛美 新聖歌196・聖歌256
 パウロは「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と述べている。パウロがコリントに行った時の状況を使徒言行録から見ると、フィリピにおいて福音を伝え、信じる人々が起こされ始めた時、投獄される。テサロニケに進んで御言葉を伝え、神をあがめる多くのギリシャ人や主だった婦人たちが信じた時、ユダヤ人の妬みによる暴動に遭った。ベレアでもテサロニケのユダヤ人が押し掛け、騒ぎを起こしそこを去らなければならなかった。アテネにおいても信じる人々は起こされたが、パウロにとって成功したと言えるものではなかった。そしてパウロは、唯一人でコリントに来たのであった。コリントにおける宣教においてもユダヤ人たちは抵抗し、口汚く罵ったのでパウロは会堂を後にし、異邦人の方に向かっていった。そのような失望と落胆の中にある時主は幻によって「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ(使18:9-10)」と語りかけられ、パウロは力を得て1年6カ月にわたってコリントにとどまり、御言葉を伝えた。
 パウロのような偉大な使徒でも失望落胆に陥ることがある。しかし主は常に共に居て励まし、力を与えてくださるのである。私たちも試練に遭遇し失望落胆する時がある。しかし主は常にあなたと共にいてくださる。主に信頼し、祈り新しい力を頂いて進もう。

 

2013/10/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 10:13-16 賛美 聖歌490
 神の国に入る祝福について主は子供を通して教えられました。主は子供を抱き上げて祝福し「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われました。弟子たちは特権意識や自分の価値観をもって子供たちが主イエスの祝福を受けるのを妨げようとしました。もちろん弟子たちには自分の価値観に基づいて、多忙な自分たちの師を雑用から守ろうとする心遣いもあったでしょう。しかし主は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われました。神の国に入るには子供のような謙遜、信頼、素直な信仰が必要であることが分かります。また、すべての人は神の祝福と愛を受けるべき大切な人なのです。自分は神様にとって大切な者であり、祝福を受けるべきものであることを知り、心を開いて主のもとに進み行きましょう。