2014/6/30-7/5
- 2014.06.30
- ディボーションの友
2014/6/30(月) 担当 高谷清師 ?コリ8:1-3 賛美 新聖歌354
続いてパウロは「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と語る。カルヴァンは「何か知っていると思う人」とは、「自分の持っている知識にうぬぼれて、いい気になり、自分こそ、だれよりもすぐれた者だとして、他人をさげすんでいる者のことである」と記し、更に「真の知識は、わたしたちをおごり高ぶらせるどころか、かえって、まったくむなしい者にするのである。ともあれ、倣慢のあるととろには、無知がはびこり、神を知る知識は存在しない。これこそ、すばらしい一節である。どうか、各自で、この一節をしっかりと学んで、真の知識の規準は何かを、十分に理解していただきたい(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P191新教出版社)」と述べている。箴言もまた「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め(箴9:10)」と語っている。更に、ヨハネは「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです(?ヨハ4:8)」と述べている。空しいこの世の知識ではなく、神を愛することによって与えられる真の知識によって進もう。
2014/7/1 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上16:23-27 賛美 新聖歌166
16:23には16:8に続いて再び賛美の呼びかけがなされる。ここでは礼拝をささげる共同体が賛美へと招かれる。神の救いを賛美し、告げ知らされるようにと招かれる。救いこそがイスラエルの共同体の基礎である。そして彼らは国々に対して主の栄光を語り伝えることを求められる。神の恵みの中で作られてきたイスラエルは自己完結するためではなく、全世界に対して救いを述べ伝え、神の栄光を伝えるという責任を担っている。そしてその栄光は天地の作り主である神だけに帰されるものである。人はその手で偶像を作ってそれにひれ伏すが、それらは全く力がなくむなしい存在である(イザヤ40:18-26)。
私たちも救いを受けて神の子とされた。教会は救いを受けた人々によって形成される共同体である。私たちもまた賛美へと招かれている。この賛美はあくまで主の栄光を語り伝えるためであり、本当に礼拝を受けるに値する方である唯一の神にささげられるものである。今日も神の救いを受けたものとして、主に喜ばれる賛美をささげていこう。
2014/7/2 (水) 担当 高谷清師 ?コリ8:1-3 賛美 新聖歌275
更にパウロは「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」と述べる。真の知識は神を愛することによって与えられるのであるから、「神を愛する人がいれば、その人こそ神を知っている―真の知識を持っている―人である」となるところであるが、「その人は神に知られているのです」と語られているのである。ここに私たちの信仰の本質がある。即ち、世の宗教は思索、探究、修行等、人間的努力等によって神に至ろうとする。しかし私たちの信仰は神が啓示してくださった御言葉を信じることによって神に至るのである。更に主が「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語っておられるように、私たちが信仰を持ち得たのも神の恵みによるのである。感謝しつつ、御言葉によって歩もう。
2014/7/3 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上16:28-43 賛美 新聖歌155
引き続き賛美が捧げられている。詩編から引用された言葉であるが、詩編には世界に対する神の裁きが述べられているが、ここでは意図的に世界に対する裁きについての言葉は省かれている。それによって裁きの対象がイスラエルに限定されていく。確かに神は恵みをもってイスラエルを導いてこられた。ここで改めてイスラエルが裁かれることが述べられることによって、神の前に生きるイスラエルが常に責任をもって歩むべき存在であることが確認される。そして主が裁くために来られる時、被造物全体が喜び迎える。神の正しい裁きがなされることによって自然を含む世界全体が影響を受けるからである。
神とともに歩むイスラエルは常に賛美へと招かれ、感謝をささげる。そしてこの賛美は神の箱の前で一回きりささげられたものではなかった。ダビデはアサフとその兄弟に日毎に奉仕させたのである。この様にしてイスラエルでの賛美の形態が整えられていった。賛美は日々神に従う人々とともにあるものである。
2014/7/4(金) 担当 高谷清師 ?コリ8:4-6 賛美 新聖歌166
「偶像に供えられた肉を食べることについてですが」と述べて、話題を本筋に戻す。そして「偶像」について述べる。パウロはアテネで街の至るところに偶像があるのを見て憤慨したのである。日本には八百万の神があると言われ、インドにはさらに多くの神々があると言われる。異教世界は偶像の神々で満ちている。しかし、世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っているのである。即ち、三位一体の神だけが唯一真の神である。偶像の神は真の神の被造物を人間が神として祀り上げたものであり、やがて滅び行くものである。このことは偶像に満ちた異教世界におかれた日本のキリスト者の信仰生活と宣教姿勢に大きな示唆を与える。私たちが偶像と向き合う時、対等のものとして議論し、論争している姿を見るのである。しかし、求められるのは反抗する息子を扱い父のような態度、威厳と尊厳と愛と忍耐と慈しみを持った態度が求められるのである。
2014/7/5(土) 担当 高谷由紀子師マルコ11:27-33 賛美 新聖歌38
祭司長、律法学者、長老たちは当時のユダヤ人社会の中で人々を教え導く立場にありました。そして彼らはその立場のゆえに甘い汁も吸っていたのです。彼らが主の権威に対して疑問を投げかけました。この出来事の前にはイエスが神殿の境内から商人たちを追い出されたこと(7:15-19)と、他の場所で人々に教えられたこと(11:20-26)が記されています。つまり、彼らがイエスの権威を問題視したのはある特定の行為に対してだけではなく、主の数々の業と教えのすべてだったのです。その時主は彼らに問い返されました。ヨハネのバプテスマの権威の所在について問いかけることで、彼らに天からの権威を認めるかどうかを確かめられました。
主の業と言葉はバプテスマのヨハネと同じ権威によるものでした。祭司長、律法学者、長老たちは自分たちの立場を守るために、明確に答えることを避けました。神様の権威を知りながら認めなかったのです。人は皆神の権威を受け入れるように招かれています。日々主の権威を受け入れて主と共に歩みましょう。”,,1166″
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