2014/11/17-22

2014/11/17 (月) 担当 高谷清師 ?コリ12:1-3  賛美 聖歌 342
 続いてパウロはコリント教会の混乱の原因となっていた第三の問題―霊的な賜物を取り上げる。私たち人間は肉なるものであって霊的な問題については無知である。霊的存在者の誘導によってのみ、知ることが出来る。一方、神は霊である(ヨハ4: 24)。悪魔とか悪霊と言われるものも霊的存在である。従って悪霊は私たち肉なるものよりも鋭くイエスの本質を見分けている(マルコ5:1-10参照)。そしてパウロが「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました(エフェ2:2)」と述べているように、イエスを知らない「世」は悪霊の支配下にある。悪霊の働きか、聖霊の働きかについて見分ける方法としてパウロは『神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです』と語っている。ヨハネも「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています(?ヨハ4:2-3)」と述べている。今日も悪霊は活発に働いている。御言葉に立って正しく霊を見分ける者となろう。

2014/11/18(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下9:1-12  賛美 新聖歌 165  
 これまで歴代誌はソロモンの時代について語ってきたが、ここからはソロモンの死後からゼデキヤ王の神殿破壊に至る分裂王国時代につい語っている。同じ時代についてはすでに私たちが読んできた列王記にも書かれているが、両者を読み比べると、大きな違いがある。歴代誌は北王国に関してはほとんどその歴史を語ることなく、南王国の歴史に集中している。北王国について語られるのは南王国とかかわりを持つときである。
 どうして歴代誌はここまで明白に南王国の王について語ることにこだわるのだろうか。それは神殿で行われる正しい礼拝を重視するからである。ダビデはやがて建てられる神殿で行われるべき正しい礼拝の形を準備した。ソロモンが神殿建築者として選ばれ、実行した。そしてこの神殿と正しい礼拝を引き継ぐのはダビデの家であった。南王国はこのダビデの家系を引き継いでいく。それゆえに歴代誌は真のイスラエルとして南王国の歴史をたどるのである。ここに礼拝が正しくささげられることがどれほど重要であるかが示されている。それは外形だけにはとどまらない。神とのあるべき関係にとどまり、真の神だけを礼拝することが大切なのである。

2014/11/19 (水) 担当 高谷清師 ?コリ12:4-6  賛美 新聖歌 399
 続いてパウロは「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」と語る。教会にはいろいろな賜物があり、いろいろな務めがあり、いろいろな働きがある。教会はそれらを必要としており、神は御心のままに一人一人に与えられる。従ってキリスト者は各々異なった賜物、務め、働きを与えられている。しかしそれらはすべて一人の神から出ているのである。従って各々が与えられた賜物、務め、働きに忠実であることによってキリストの体なる教会が建てあげられ、神の栄光があらわされるのである。今日一日、自らに与えられた賜物、務め、働きに忠実であることによって神に仕えよう。

2014/11/20(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下10:1-19  賛美 新聖歌 396  
 ソロモンの死後、レハブアムが王となった。しかしレハブアムの治世は順調には始まらなかった。ダビデとソロモンがそれぞれヘブロンとエルサレムという首都で王座に就いたのに対して、レハブアムはエルサレムではなく、北のシケムに出向いていかなければならなかった。即位したときから北の諸部族に対するレハブアムの支配は盤石ではなかった。王を立てるために民が集まった時、ソロモンから逃れてエジプトにいたヤロブアムまでが呼び出されている(10:3)。歴代誌はヤロブアムをここで突然登場させているが、ヤロブアムについては列王記上11章から12章に詳しく記されている。彼はソロモンの時代から労役の監督として仕えていた。預言者アヒヤがヤロブアムに対して、神が王国を裂いて十部族を彼に与えると彼に告げていた。
 レハブアムが北の十部族の支配権を失うことになったのは、ヤロブアムを通して提示された北部族の労役軽減の申し出を断ったことによる。彼は経験豊富な長老たちの勧めを聞き入れず、同世代の若い側近たちの意見を聞き、力で支配を得ようとした。レハブアムは長い間ソロモンに仕え、神に従ってきた人々の意見に耳を傾ける謙遜を持たなければならなかった。同時にアヒヤの言葉が実現されたことを聖書が伝えているのは、背後に神がおられたことを明確に伝えているのである。神に従う人々を神は常に導かれる。知恵を持って主の導きを聞き分け、従おう。

2014/11/21(金) 担当 高谷清師 ?コリ12:7-11  賛美 新聖歌 391
 各人にはいろいろな賜物、務め、働きが与えられているが、それは一つ御霊によるのである。○○の賜物を与えられた人は××の賜物を与えられた人よりも偉大に見えたり、重んじられたりする。しかし、それによって高慢になったり卑屈になったりしてはならない。また、その賜物の行使にあたっては利己的になってはならない。それは全体の益となるためにあたえられているのである。私たちは自らに与えられている賜物によって神と人、教会全体に仕える責任を課されている。主は「しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される(ルカ 12:48)」と語っておられる。

2014/11/22(土) 担当 高谷由紀子師 創世記39:21-23 賛美 新聖歌321
 ヨセフは神様を信じて生きる人でした。兄弟たちに憎まれ、意地悪をされ、エジプトに売られ、一人ぽっちの淋しい生活とつらい仕事を強いられましたが、やり遂げました。また無実の罪を着せられることもありましたが、「主が共におられる」という信仰によってどんな逆境にも不条理にも耐え、誠実に歩みました。このようなヨセフの歩みを主は祝福してくださいました。そしてヨセフは周りの人々の信頼を得て勝利を得たのです。「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」と記されているとおりです。いかなるときにも、主と共に歩みましょう。”,,1108″