2015/3/30-4/4

2015/3/30 (月) 担当 高谷清師  マタ 27:45-56  賛美 新聖歌 214
 主イエスが十字架に付かれた日、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されている。そして三時ごろに主は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれたことが記されている。福音書の記者は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると教えている。かつて主が「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(ヨハ 17:21)」と語られた主のみ言葉を思う時、この言葉に戸惑いを感じるかもしれない。しかし、主が人の罪を負われたとき、呪いとなり、神との断絶を経験されたのである。パウロは『キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです(ガラ3:13)』と記している。ここに罪の中にある人類の、すべての被造物の絶望と悲しみがある。しかし、罪の故の呪いと断絶、その根底になお望みがある。パウロは「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです(ロマ1:3-4)」と記しているからである。神がみ旨に従い、世の罪を負い呪いとなられた御子を、ご自身の御力により、よみがえらせてくださったからである。
 罪を犯し、呪われるものとなり、神のもとを追われ、神に逆らい続けていた私たちを棄てず、愛し続けてくださった神、その愛の故に成し遂げられた救いの御業こそ私たちの希望であり、喜びであり、命である。

2015/3/31(火) 担当 ラウジー満世師 1ペテロ2:22-25 賛美 新聖歌105
 今週は受難週である。私たちの主が十字架で死なれたことを覚えて、十字架についてみことばを聞きたい。今日の箇所は主の十字架の苦しみの意味を教えている。これはペテロが当時の困難な状況の中に生きるクリスチャンたちに書き送った手紙の一部である。苦難の中でもキリストの復活によって与えられた救いと希望を忘れず、聖なる生活するよう励ました後、特に召使いとして主人に仕えている者たちに、主が耐え忍ばれたように耐え忍びなさいと勧めている箇所の一部である。
 ここで語られている主の十字架の意味はまったく新しい創作ではなかった。既に預言者イザヤを通して何百年も前に啓示されていたことであった。イザヤ書42章から53章の間に「苦難の僕」と呼ばれる箇所が4か所あるが、ここではイザヤ書53章が用いられている。それは罪の結果として国を失ったイスラエルの民に回復の希望を与えるメッセージであったが、具体的にこれは誰を指すのかわからなかった。長い時間を経て、ようやく主の十字架と復活の証人となったペテロを通してその預言が解き明かされている。主の十字架は主ご自身の罪の故ではなく、罪深い私たちのためであった。

2015/4/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:28-30  賛美 新聖歌 269
 「主イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と記している。この「成し遂げられた」という言葉を口語訳聖書は「すべてが終った」、新改訳聖書は「完了した」と訳している。この箇所について深井智朗師は「ここでテクストは多くを語ってはいないのである。ただひとこと「テテレスタイ」と書く。それは「テレオー」の三人称単数の完了形の直説法の受動態である。「テレオー」の名詞形は「テロス」である。「テロス」には二つの意味があり、ひとつは「終わり」という意味であり、もうひとつは「目的」という意味である。(中略)ヨハネの語る十字架の秘儀が示されている。「終わり」と「成就」である(アレテイア―釈義と黙想ヨハネによる福音書P325日本キリスト教団出版局)」と語っておられる。イエスの死によってイエスに対する世の支配は終わった。そして神の国が始まったのである。パウロは「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(?コリ 5:17)」と語っている。私たちの罪を負って十字架に死なれたキリストの死によって、キリストを信じるすべての者に対する罪と死の支配は終わり、神の国が始まったのである。王の王なる主をたたえよう。

2015/4/2(木) 担当 ラウジー満世師 1ペテロ2:22-25 賛美 新聖歌111
 十字架につけられた主を目の前にして、弟子たちは困惑し、恐れた。この手紙を通して主の十字架の意味、私たちとのかかわりが明らかにされた。主は確かに罪のない方であった(2:22)。そしてご自分を救うことがおできになったにも関わらず、正しい裁きを神の手にゆだねて主ご自身は受けるべき杯を受けてくださった。ののしられ、嘲られながら死んでくださったのは、ほかならぬ罪びとである私たちが神から断絶されて死ぬべきであったにもかかわらず、新しい命を受けるためであった。そしてこの主の身がわりの死によって私たちは生きる者とされ、帰るべき牧者である神のもとに帰り、平安を見出したのである。
 明日の受難日を前にして、この神の愛と主の苦しみをしっかり心に留め、感謝を持って今日の一日を過ごしたい。

2015/4/3(金) 担当 高谷清師  ヨハ 19:25-30  賛美 新聖歌 237
 マルコは「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長の信仰告白を記している。ローマの兵たちはイエスを十字架につけ「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(ルカ23:37)と嘲っていた。しかし十字架のもとに立って死に至るまでイエスを見詰めていた百人隊長はこの信仰告白に導かれたのである。この百人隊長は神学教育を受けてイエスが神の子であると教えられたのでもなく、彼に対して誰かが神学的にイエスは神の子であると証明したのでもない。十字架上のイエスと向き合っていたのである。ある人は十字架上のキリストの画像を前にして『我、汝の為にかく為せり、汝我が為に如何為すや」とのメッセージを聞きキリストを救い主として受け入れたということである。十字架は聖霊の働きによって人を悔い改めに導き救いに入れる。十字架の言葉を宣べ伝えよう。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です(?コリ1:18)」と述べている。

2015/3/28(土) 担当 高谷由紀子師 ?ペテ1:22-25  賛美 新聖歌316
 ぺトロは力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言い張っていた。しかし主が捕えられ、裁判を受けられるに至って主を拒んだ。大祭司に仕える女中の一人が「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言った言葉に狼狽し三度もイエスを否定した。これは主が予告されていた通りであった。(14:30)人間の決心のもろさを見る。しかし、その後ペトロは本心を取り戻し、主を否んだ不信仰を悔い改めた。悔い改めて主のもとに帰ることをせず、すべてを自分の手で回復しょうとしたユダとは違っていた。私たちもぺトロと同じもろさを持っている。罪を知った時、ためらわず、悔い改めて主に立ち返ろう。”,,1141″