2015/8/24-29
- 2015.08.24
- ディボーションの友
2015/8/24 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ1: 6-9 賛美 新聖歌 468
「それゆえ」即ち3−5節を受けてぺトロは「あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と語る。「悩まねばならないかもしれませんが」を新改訳は「悲しまなければならないのですが」と訳している。これに関してカルヴァンは「喜びを大いに喜ぶ信者たちが、同時に悲しんでいる、とベテロが述べる以上、そこには何かしら矛盾があらわされているように思われる。というのは、喜びと悲しみとは、二つの相反する感情であるからである。信者たちは、この二の感情が共存しうることを、言葉ではうまく説明できないけれども、経験に基づいて熟知している。それにもかかわらず、この問題をかんたんに解くとすれば、信者たちが決して木石の身でないこと、人間的な感情を奪いとられていないこと、すなわち、苦悩に傷つけられ、危険を恐れ、貧しさはかれらにとって苦しみであり、迫害に耐えるのは厳しく、かつ、むつかしいことなどを理解しなければならない。かれらは、苦しめられるがゆえに、悲しみを感ずる。しかし、悲しみは信仰によって和らげられるから、彼らは喜ぶことを決してやめることはない。このようにして、悲しみはかれらの喜びを少しもさまたげない。いや、むしろ、悲しみはその場所を喜びに譲るのである。これをくり返していうと、喜びは、悲しみを乗り越えるけれども、しかし、悲しみをまったく打ち消すというわけではない。喜びは、われわれを人間的な脆さから、脱却させないからである.(カルヴァン新約聖書注解??ペテロ・ユダ・ヨハネ書簡P30新教出版社)」と述べている。
ある方が「聖書には『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(?テサ5:16-1)』と語られているが、いつもそういうわけには・・・」と話しておられたが、この箇所のとおりである。時あたかも、寝屋川市の中学生二人の殺害事件が報じられている。遺族の方々、関係者の方々の心情は・・・言葉を失う。しかし、一抹の希望はキリストの恵みの中にある。パウロは「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(フィリ 3:20)」と述べている。
2015/8/25(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書6:9-13 賛美 新聖歌392
イザヤの幻の中で神との対話が続いている。遣わすべき者を探す声にイザヤが応えた時、主が彼に任務を託された。通常、預言者が遣わされて民に語る時、神の思いを伝え、民が神に立ち帰るように勧める。しかしここでは思いもかけず、神はイザヤに対して「語れ、しかし民が悟らず、悔い改めることがないように」と指示された。罪を犯し続ける人々に神のことばを語りなおかつそこに悔い改めがないようにせよということはつまり、滅びと死の最後通牒を突きつけろと言うことであった。あまりにも厳しい神の姿であり、私たちが知っている神とは全く違う様子に見える。しかし、これもまた義なる神の姿である。イザヤ書の冒頭から罪を犯し続ける民の姿、愛されているのにその愛を否定した民の姿が語られてここに至っている。「何をしても結局神は私を愛するのだ」と侮り続けるなら、神の赦しは取り去られる。
愛してくださる神の愛を侮ってはならない。その愛に応えて私たちも心から神を愛していこう。
2015/8/26(水) 担当 高谷清師 ?ペテ1: 6-9 賛美 新聖歌 444
カルヴァンは言葉を続けて「われわれは、この人間的な脆さによって、真の忍耐とはいかなるものかを認識するのである。真の忍耐のはじまり、いわば真の忍耐の根拠は、神の恵みを知るということであり、おもにわれわれが、神の子らと呼ばれるようになった原因をなす神の無償のわれらの養子採用を考えてみたときにおいてである。というのは、これほどまでに精神を高めてこの厚意に満ちた恵みを味わったひとびとが、あらゆる試練に静かに耐えることは、いとたやすいことであるからである。それにも拘らず、実際には、それらの人人がかかる精神的な財宝をよく味わっているのに、かれらの心が悲しみにしばしば押しひしがれてしまうのは、何が原因なのだろうか。それはともかく、こういうことを定められたこととし、あらゆる苦悩は自分たちの救いに有益な仕事であるとしている人々は、あらゆる苦悩を乗り越えるばかりでなく、それらの苦悩を喜びへの転機として役立てているのである。(カルヴァン新約聖書注解??ペテロ・ユダ・ヨハネ書簡P30新教出版社)」と述べている。
苦難に耐える忍耐を生み出すのは、キリストによって私たちに与えられた神の恵みである。そしてそれは私たちに希望を得させる。パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(ロマ 5:3-5)」と述べている。
2015/8/27(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書6:9-13 賛美 新聖歌233
同じ箇所の前半では義なる神の厳しさについて見た。民は自分たちの罪の故に滅びに直面しなければならない。その後どうなるのか。イスラエルもまた歴史上の大国と同様に滅びて四散し、何も残らないのだろうか。ここでまた驚くべき神の計らいがある。それはこの地が荒れ果てた後になお切り株が残るのである。切り倒された木は大木であってもやがて葉が乾き、落葉し、枝もカラカラになって最後には焼かれるか土に戻っていく。命が絶えるのである。しかし、土に残された切り株を見ると、そこから新たに芽吹き、育っていくのである。驚くべき生命力である。イスラエルの残された者もこの切り株のように残された生命の営みからもう一度育つ。しかもそれは「聖なる種子」と呼ばれるのである。
神の前に「聖」ではありえなかったために「聖なる」神の前から一掃されたイスラエルにも「聖なる種子」が残され、新たに神と共に歩み始める希望が残された。これを単なる「ラッキー」で片づけるのではなく、神の憐れみとして受け止め、再び神から離れることのない歩みを続けていきたい。
2015/8/28(金) 担当 高谷清師 ?ペテ1: 6-9 賛美 新聖歌 369
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と記されている箇所をカルヴァンは「いま、しばらくのあいだは、必要ならば、 さまざまの試練で深く悲しまねばならないかも知れないが(カルヴァン新約聖書注解??ペテロ・ユダ・ヨハネ書簡P29新教出版社)」と訳している。ウェイン・A・グルーデム師は「ペテロは、それゆえクリスチャンたちは、それが彼らのための神の偉大で無限に賢明なご計画の観点から必要であるときにのみ、深い悲しみを経験するのだと言う。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P66いのちのことば社)」と述べておられる。ヘブル書は「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、
力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、
鞭打たれるからである。」 (ヘブ 12:5-6)」と述べている。
また、ヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです(ヤコ 1:12)」と述べている。全き信頼をもって主に従おう。
2015/8/29(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 5:11-20 賛美 新聖歌359
イエスは悪霊につかれた人を解放された。彼はイエスと一緒に行きたいと願ったが、主はそれを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われた。イエスの御業によって救われたこの人を主は、身内の人に、主を証しするために家庭に戻された。
主の憐れみによって救われたある人を主は社会から召し出し主の働き人として遣わされる。またある人を家庭に、社会に戻し、その中に在って証しする者とされる。いずれも尊い働きである。私たちは主が任じられる働きが如何なるものであっても、そこに在って、真をもって仕えよう。”,,1101″
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