2015/11/2-7
- 2015.11.02
- ディボーションの友
2015/11/2 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ2:4-6 賛美 聖歌 265
「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と語られている。主が十字架の上で血を流し、息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。主の十字架の血潮によって、全ての人が神の前に進む道が開かれたのである。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と教えておられる。ぺトロもまた「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語っている。イエス・キリストは人が神に至る唯一の道であって、それ以外に人が神に至る、救われる道は存在しない。このことは「キリスト教は西洋の宗教であって、日本には日本の宗教がある。それで十分である」と言った議論をきっぱりと拒絶する。今日の日を、御名によって歩もう。
2015/11/3(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書14:1-3 賛美 新聖歌172
このイスラエルの回復が語られている短い言葉は、前後をバビロンへの厳しい裁きの言葉に囲まれている。これはイスラエルが経験する捕囚の後になされる神の御業の約束について語っている。捕囚を経験するということは、祖国が戦争に敗れて外国に踏みにじられるということである。そしてイスラエルの人々にとっては、それは、自分たちを守ってくださる力ある方であるイスラエルの神が、他国が神と信じている偶像に敗れたということであった。まさに絶望を体験したのである。それにも関わらず、ここではイスラエルを滅ぼした敵に対する神の裁きの宣言の真ん中で、捕囚は終わりではなく、その先に神がイスラエルを再び憐れんで建て直してくださるという希望に満ちた約束がある。
目の前に見える、イスラエルが経験する、亡国という経験は失望に満ちた終わりではない。彼らの目には全くの絶望としかみえない真っただ中で、神は希望を与えてくださるのである。私たちの生活の中でも最悪の状況に置かれるとき、その中で将来の希望など、どう考えても見いだせないとき、その先に希望を与えることのできる神がおられることを覚えよう。
2015/11/4(水) 担当 高谷清師 ?ペテ2:4-6 賛美 新聖歌 2
ぺトロはイザヤ書28:16を引用して「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」と語る。弟子たちが、師と仰ぎ、主として従ってきたイエスは、彼を妬むサドカイ人やファリサイ人、律法学者たち、異邦人たちの手によって十字架上で息を引き取られた。弟子たちは最後まで奇跡を期待したかも知れなかったが、空しく消えた。サドカイ人やファリサイ人、律法学者たち、異邦人たちは勝ち誇り、弟子たちは失望の淵に落とされた。しかし三日目の朝、神は御子を死から解き放ち、甦らされた。更に、神は聖霊を注ぎ、イエスこそ「選ばれた尊いかなめ石」であることを明確にされた。弟子たちの失望は希望に変えられた。パウロは言う「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(?コリ4:7-10)と。主イエスこそ、信じる者の永遠の希望であり、信じる者は決して失望に終わることはないのである。御子を信じ、褒め称えよう。
2015/11/5(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書14:4-23 賛美 新聖歌325
再びバビロンに対する裁きの言葉が語られる。イスラエルとユダの国が位置していたパレスチナだけではなく、その北東地域のメソポタミアから、パレスチナを越えてその南に位置するエジプトまでに勢力範囲を拡大していくバビロンに対して「その抑圧は終わった。(14:3)」と語られる。世界の最大勢力である国が突然その力と支配を失い、森の木々からも嘲られるというような姿を誰が想像し、実現できるだろうか。そして没落したバビロンは陰府においても嘲られる。かつて神のように高い地位に上り詰めて世界を支配しようとした(14:14)バビロンが、今や天とは対極にある陰府に落とされる。神にしかなし得ないこのバビロンの姿を見るとき、人々はただただ驚く。
誰もが信じられないような宣言がここに語られている。世界で最大の力を持つ国が突然滅ぼされるなど、だれが考えられるだろうか。誰がまともに理解するだろうか。しかしこれはすべてを支配される神のことばだからこそ信じることが出来る。全く希望を持てない中、私たちに希望を与えるのはただ神のことばである。今日も神のことばを心に留めて歩もう。
2015/11/6(金) 担当 高谷清師 ?ペテ2:7-8 賛美 新聖歌 428
ぺトロはここで信じる者にとってのキリスト、信じない者にとってのキリストについて語る。信じる者にとってキリストは掛けがえのないお方である。私たちに救いをもたらす唯一のお方だからである。パウロも「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ 3:4-11)と述べている。異教社会においてキリストを告白することは、ある時には栄達の道を逃すかもしれない、またある時には商機を失うかもしれない、また、ある時には・・・・・。しかしキリストに従うことは、それらをはるかに超える祝福の道である。
2015/11/7(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 18:21-22 賛美 新聖歌359
ぺトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねた。日本には「仏の顔も三度まで」という言葉があります。人間の感覚では同じ過ちを繰り返した場合、赦すのは三回が限度という思いがあります。しかしペトロは日ごろイエス様と親しく接していて、イエス様が愛と寛容に富んでおられるお方であることを実感していたので、大奮発して「七回まで」と尋ねたのでした。それに対してイエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになりました。これは「無限に赦しなさい」と言う意味です。主はご自身の命をもって私たち人間に罪の赦しを与えてくださいました。主の無限の赦しに感謝し、互いに赦し合う者となりましょう。”,,1098″
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