2015/11/23-28
- 2015.11.23
- ディボーションの友
2015/11/23 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ2: 11-12 賛美 新聖歌 367
続いてぺトロは「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」と語る。パウロは「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(フィリ 4:8)と述べている。キリスト者は世に在って世のものではない。罪と汚れの世から御子の尊い血潮によって贖い出された者である。世に在る罪と汚れの生活におぼれてはならない、飲み込まれてはならない。しかし、世のすべてを無視してはならない。世に在る、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、徳や称賛に値することを重んじ、聖霊に従い、神の栄光を顕す歩みをしょう。
2015/11/24(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書17:1-6 賛美 新聖歌396
ダマスコは北イスラエルの北に位置するアラムの国の首都であった。イザヤ書7章から9章は両国が反アッシリア同盟を結び、ユダに対してその同盟に加わるよう圧力をかけていた時にイザヤが神から与えられたメッセージを記していた。同盟を結んで大国アッシリアの侵略に対抗しようとしたダマスコとイスラエルには、敵によって滅ぼされると明確に語られる。ダマスコは完全に破壊されてがれきの山となり、イスラエルはやせ衰えた肉であり、実がほとんど残っておらず、なお打たれて切り倒される木のようになる。
ダマスコが滅ぼされることは、神を知らず、信じない民だからと説明しやすいかもしれない。しかし、イスラエルは神に選ばれた民であった。全く神との関係において立場が異なる両国が同じように滅ぼされるのはどうしてなのか。それはイスラエルも、造り主を見上げ、信仰によって頼ることをしなかったからである。神を信じることは人生における一瞬の決断ではなく、その時から日々私たちの信仰によって神に従うことを選び、信頼していく継続的な歩みなのである。今日も主に従う決断をする一歩を歩み始めよう。
2015/11/25(水) 担当 高谷清師 ?ペテ2: 11-12 賛美 新聖歌 366
「訪れの日」についてウェイン・A・グルーデム氏は『それをさばきを意味する専門用語と受け取るのは賢明ではない。単に「神が訪れる日に」(祝福とさばきのどちらをもたらすかは、残りの文脈から決定しなければならない)と理解するのがよい。』と述べておられる。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P129 いのちのことば社)パウロが『ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』(?コリ12: 3)と記しているように、異教徒、神を信じない人々が神を崇めるものとされるのは神によるのであって、私たちが神を信じない人々に神を信じさせることはできない。しかし、神を信じない人々に神が出会ってくださるときに、彼らが神を信じるための備えをさせるのが伝道の業である。キリスト者の立派な行いは伝道の重要な部分を占めている。
2015/11/26(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書17:7-11 賛美 新聖歌427
7-8節は不信仰の故に国を滅ぼされた民がついに悔い改めて神に立ち帰る姿が記されている。最悪の状態に達したときにようやく人々は偶像が力のないものであることを悟り、本当の創造主を仰ぎ見る。
人々が主に立ち返る姿を見てほっと胸をなでおろす暇もなく、9節からはもう一度、裁きと滅びが語られる。そして10節には再度ダマスコとイスラエルが救い主を忘れ去り、頼むべきものに心を留めていないと叱責される。7-8節は本当の悔い改めではなかったのである。真の神は頑なな民に対して、本当に偶像の力によって回復させられるならやってみろと挑戦される。
偶像はいつの時代にも魅力的であり、人の心を惑わせ、惹きつける。しかしそこには私たちを救い得る力と真理は存在しない。ただ一人力ある方である真の神を見つめ、離れることなく歩もう。
2015/11/27(金) 担当 高谷清師 詩 6:9-11 賛美 新聖歌 344
病の苦しみの中で、それが自分の罪に起因することを悟ったダビデは、悔い改め、自らの惨状を訴え、そのような中にあってもなお、神の憐れみを求めた。それは神以外に救い得るものは無いことを知っているからである。そのダビデが一転して「主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」と宣言する。この箇所について月本昭男氏は『一見すると、これらは、祈り手が病苦から癒された後の言葉にもみえる。ところが、続く10後半には未完了動詞が用いられており、その全体は祈願文として、「ヤハウェがわが祈りを受けてとめてくださるように」とも読めるのである。おそらく、祈り手は未だ病苦のなかにおかれているのであろう。とすれば、「ヤハウェが聞いてくださった」という完了文は、病苦解放の勝利の宣言というより、祈り手の確信を表している。つまり、最後の段落には、祈りと嘆きなかで祈り手に与えられた神ヤハウェの「慈愛」への確信が、具体的な希求と共に表明されているのであろう。」(詩篇の思想と信仰?P81−82新教出版社)と述べておられる。主イエスも「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マコ 11: 24)と教えておられる。祈りは神との交わりである。祈りの座において神の声を聴き、御心を知り、それによって歩むのである。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と教えられているからと言って、「祈り」と称して一方的に自分の求めをまくしたて、「祈った」言う人がある。しかし祈りは神との交わりであるから、祈りの座においては自らの願いを述べると共に、主のみ声を聴かなければならない。常に耳を傾け、み声を聞き、歩む者となろう。
2015/11/21(土) 担当 高谷由紀子師 マタ16:13-20 賛美 新聖歌427
イエスがフィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、主は弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えた。それを聞かれた主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われました。それに対してぺトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。この答えを聞かれた主は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。
パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」(?コリ2:14-15)と語っています。世の人々は主を肉によって知り、偉大な宗教家、道徳家、・・・なぞと言います。しかし霊によって知る時始めてイエスに. 「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えることが出来るのです。常に、肉によらず、霊によって歩みましょう。”,,1135″
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