2016/1/4-9

2016/1/4 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:16-17 賛美 新聖歌 434
 ぺトロの、御子の血潮によって自由な者とされた私たちの生き方についての教えの最後は「すべての人を敬いなさい」ということである。日本においては「すべてに人」と言うとき、大半が未信者である。キリスト者とは、神が全人類を愛して御子イエスをお遣わしくださり、このお方を十字架につけて罪の贖いの御業を成し遂げくださった、その御業を信じ、受け入れ、救いにあずかった者である。その信仰によって永遠の命の恵みに与っているのである。一方、未信者とは未だこの贖いの御業を信じ受け入れていない人々であって、神は彼らを救いの恵みに入れようとして招いておられるのである。それ故に私たちは宣教するのである。しかしキリスト者はこの人々を、闇の世の主権者に属する者、滅びゆくものとして否定的に扱っているのではないであろうか。もしそうであれば宣教の言葉は彼らには届かないであろう。宣教の言葉が人々に届くのは愛に裏付けられている時である。パウロは「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」(?コリ13:4-5)と述べている。そして「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(?コリ9:19)と述べている。私たちはすべての人に、愛により敬意をもって歩もう。

2015/1/5(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書22:1-14 賛美 新聖歌458
 諸外国に対する厳しい裁きの預言の最中にエルサレムに向けられた言葉がある。これもまた厳しい裁きの言葉である。21:14では罪が赦されることがないと語られるが、5章で指摘されていたような弱者を顧みないという具体的な行動ではなく、臆病や人間的な力への依存や、どうせ死ぬという運命論的な不信仰など、精神的で内面的な罪だけがここに暗示されている。預言者が語り続けてきた問題はユダが神に対して信頼していないということであった。ここでもまだ彼らは神に頼るのではなく、森の家の武器などという人間的な力に頼っている。そして最終的には目の前に起こる悪い状況を見て『明日は死ぬのだから』(22:13)という不信仰の告白に至る。
 様々な時代状況を背景とした預言者の言葉を読むとき、その背景にある状況に気を取られてしまう。しかし、ここでも預言者のメッセージは一貫している。神に頼る信仰に立たなければ赦されることがないという警告をもって神に信頼することが迫られている。

2016/1/6(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2:18-20  賛美 新聖歌 390
 この箇所においてぺトロは召使たちに「心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と語る。「召使たち」についてウェイン・A・グルーデムは「紀元一世紀の奴隷たちはおおむね良く扱われていたし、彼らの中にはあまり熟練していない労働者たちもいたが、管理者たちや監督者たち、さまざまな職業の訓練を受けた人々(医者、看護婦、教師、音楽家、高い技術を持った職人)もいた。奴隷の扱いを規定する広範な法令があった。彼らにはその奉仕に対して正規に給料が支払われていたし、ついに自らの自由を買い取ることも期待できたのである。(中略)それにもかかわらず、彼らの奉仕は自発的なものではなかった。彼らの法的身分、社会的立場、それに経済的独立を得る機会は、ローマ社会の中の他の人々より明らかに低かった。(『ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1』いのちのことば社、P137)」と述べておられる。そのような状態にある召し使たちに「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」と語る。そして「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」と語るのである。ダビデは忠実に主君サウルに仕えたが、サウルは不当にも執拗にダビデの命を狙った。それにもかかわらず、ダビデは最後までサウルに忠誠をつくし、神によってその王座は確実なものとされたのである。私たちの主人が無慈悲な人であっても忍耐をもって仕えよう。そうすれば神はそれを御心に留めてくださる。

2016/1/7(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書22:15-25 賛美 新聖歌266
 宮廷で権力をふるっているシェブナに対して語られている。彼はユダの国で大きな権力を持っていたが、神が彼をその地位から退けると言われる。さらにこの預言の中心にはダビデの家から出る者がユダの支配権を神からゆだねられて、正当な権威を持って治めるようになるというメシア希望が語られている。人間がもぎ取った権力によって国を治めようとするとき、その権力の座に就く者がいかに有能であっても、神の御心にかなわなないならば、退けられる。そして神はそこに御心に適う者、選ばれた者を置いてくださり、将来において正しい支配が行われるという希望を与えてくださる。
 不信仰という罪のために苦しむ現状にあるとしても、神はダビデの家から出る者が支配するという希望を取り去られることはなかった。そして神が語られる希望は必ず実現するのである。自分の力によってもぎ取る希望ではなく、神によって与えられる希望をもって歩もう。

2016/1/8(金) 担当 高谷清師  詩編9:8-13  賛美 新聖歌 384
 ダビデは羊飼いの少年であった時、神に召され、サムエルによって油注がれ、不従順なサウルに代えて神のみ前に王として立てられた。主がダビデと共におられたので大きな戦果を挙げた。世において主君なるサウルはそれを喜ぶが、ダビデの評判が民衆の間に広まるにつれ、ダビデを恐れ、亡き者としょうとするようになった。ダビデはサウルの激しい迫害の中を生きなければならなかった。サウルはペリシテとの戦いにおいて深手を負い、自ら命を絶った。邪悪な者が権力を握り、神に忠実に生きる者を迫害し、亡き者にしょうとすることはいつの世にも起こっていることである。しかし神は「裁きのために御座を固く据え、とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め国々の民を公平に裁かれる。」のである。主は虐げられている人の砦の塔となってくださる。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ 12:19-21)と述べている。

2015/1/9(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ10:13-16  賛美 新聖歌 315
 神の国に入る祝福について、主は子供を通して教えられました。主は「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(15節)と言って、子供を抱き上げ、祝福されました。弟子たちは子供たちが主イエスの祝福を受けることを妨げました。しかし神の国に入るには子供のように信頼する態度と素直な心と神の国を受け入れる信仰を持つことが必要です。すべての人は神の祝福と主の愛を受けるべき大切な人なのです。人が神のもとへ行くことを妨げることなく、自分自身も幼子のように心を開いて神を受け入れる者となりましょう。”,,1189″