2016/6/13-18

2016/6/13(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:1  賛美 新聖歌 222
 ぺトロが「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」と述べていることについてなお一考したい。パウロは「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(?コリ13:1-3)と述べている。パウロがここで言っているのはわが身を死に引き渡すような肉の苦しみを受けたとしても、それが愛によるのではなく我欲によるならば何の益もないと言うことである。すべてのことは愛によってなされなければならない。

2016/6/14(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書40:12-26 賛美 新聖歌21
 この箇所の最初と最後の部分は創造者である神がほかに比べるもののないお方であると述べる。その中で18節から20節では人が手で作る偶像に言及する。圧倒的な力を持っておられる創造者である神がおられるにもかかわらず、民はなぜ自分の手で偶像を造り、神に似せようとするのかと問われる。端的に、しかし辛辣に、神の類似品を造ろうとする人々の姿が描かれている。どれほど高価な金や銀を使おうとも、それは所詮木切れに過ぎない。人が神の姿をイメージして精巧な細工を施しても、本当の神が出来上がることはない。もちろんこの類似品は力ある創造者とは比べるに値しないものである。
 神を信じるクリスチャンがこれを読むと、自分の作品を神と呼ぶ人間の姿を愚かだと考えるだろうか。しかしこれは真の神を信じていない人々だけではなく、クリスチャンであっても陥りやすい間違いである。真の創造者なる神だけがほめたたえるべき方である。

2016/6/15 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4:2 賛美 新聖歌 250
 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」と語ったぺトロは、その目的として「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」と語る。世は神を知らず、神の御心を知らず、己の肉の欲望のままに生きている。キリストによって捕えられる前の私たちも同じように生きていたのである。しかし、神に捕えられ、尊い十字架の血潮によって救いに与り、神の御心を知った時、自分の肉の欲に従って生きる事を放棄し、神の御心に従って生きようとするのである。その時、空中に勢力を持つ者はあらゆる苦難をもって襲いかかる。主イエスは「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハ 15:18-20)と語っておられる。肉の苦しみを恐れず、神の御心に従い、歩もう。

2016/6/16(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書40:27-31 賛美 新聖歌202
 神の力をはっきりと述べた後、イスラエルに対して主に信頼するよう訴える。その第一声はイスラエルが心に持っている疑いを明るみに出している。疑いを持っているイスラエルに対して、創造者である神は疲れ果てた者―イスラエルも含めて―に力を与えると言われる。そして神が与えられる力は疲労とは無関係だろうという年代の若者や、様々な訓練を通して鍛えられている勇士にまさるほど大きい。主に信頼する人はどれほど力を使ったとしても、新たに力を得る、走り続け、歩き続けることができると言われる。
 神に信頼するということが信仰の基本であると知りながら、なかなかそこに堅く立つことができないと悩むこともあるだろう。イスラエルに語り掛けられた神は、同じように私たちにも、創造者である神は力を持っておられ、疲れた時に私たちを新たな力で満たしてくださると語っておられる。自分の弱さや苦境ではなく、力に満ちた神に目を向けよう。

2016/6/17(金) 担当 高谷清師  詩編21:9-14  新聖歌 166
 戦いを支配されるのは主である。神の御手は敵のすべてに、神を憎む者すべてに及ぶ。神が怒りをあらわされる時、神の敵、神を憎む者すべてに及ぶ。その子ら、その子孫もまた、地から断たれるのである。神の敵、神を憎む者たちは神に向かって悪事をたくらみ、陰謀をめぐらすが決して成功はしない。ヘロデが、あらゆる手段、陰謀をもって人となられた御子を抹殺しようと図ったが、決して成功しなかったように。主の御心は人のあらゆるはかりごとを超えて実現されるのである。イザヤは「万軍の主は誓って言われる。「わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。」(イザ14: 24)と述べている。それ故、王は賛美する「御力を表される主をあがめよ。/力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。」と。今の時代、科学は進歩し、多くのことが知られるようになったと、愚かな人類は考え、傲慢になっている。しかし人は、自分の体さえ、そして自分自身さえ知らないのである。しかし主はすべてを知り、愛をもって導いてくださる。私たちは自らのすべてをもって神を賛美しょう。

2016/6/18(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 21:12-13  賛美 新聖歌 196
 イエスが神殿の境内に入って行かれると、両替人や鳩を売る者たちがわがもの顔に売り買いをしている姿が目に飛び込んできた。すると主イエスは彼らを追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒し、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」言われました。
 神殿は神が臨在なさる聖なる場所であり、祈り、礼拝する場所であり、肉の欲を追及する場所ではなかったのです。今日の教会もまた祈りと礼拝の場所です。私たちは教会において自分の思いではなく、神の御心を求め従う生活をしましょう。”,,956″