2016/12/5-10
- 2016.12.05
- ディボーションの友
2016/12/5(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 1:9 賛美 新聖歌 238
ヨハネは光について「その光は、まことの光で」と述べる。この箇所についてカルヴァンは「天においても地においても光のあるものは、すべてその輝きをよそから借りているが、キリストは、自分で自分自身によって輝いている光である。さらに、それは、その光線によって全世界を照らしながら、自分以外のところにはその輝きの原因も源ももっていない光なのである。だから、ここでまことの光と呼ばれているのは、輝くというこの特性を本来的にもっている光である。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書P23新教出版社)と述べている。神は「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」と問うモーセに対し「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられた。ある人が僧侶に「仏さまは本当におられるのですか」と問うた時、僧侶は「おられると思えばおられる、おられないと思えばおられない」と答えたということであるが、私たちの主イエスは思弁上の神ではなく、厳然として存在、愛し、裁く神である。
2016/12/6(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書56:1-8 賛美 新聖歌211
55章まで一貫してイスラエルの救いが語られているが、56章に入ると救いを受ける人々はイスラエルに限定されず、それを越えている。安息日を守る人が神の救いを受け取るのである。安息日を守るならば、律法においては救いの外に置かれていた異邦人でも、宦官であっても救いを受け、神の「祈りの家の喜びの祝いに連なること」が許されるのである。救いはもはやイスラエルに限られてはいない。かつて神がアブラハムを召し出したのは、アブラハムを通して地上のすべての民が祝福に入るためであった。その神のご計画の実現がここで語られている。神はイスラエルだけではなく、安息日を守るすべての人々を救いへと招いておられる。今日でも救いは神を受け入れる、地上のすべての人に開かれているのである。
2016/12/7(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 1:9 賛美 新聖歌 433
またヨハネは「世に来てすべての人を照らすのである。」と述べる。主イエスは「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:45)と語っておられる。そして「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタ 7:7-8)と教えておられる。キリストは善人をも悪人をも、仏教徒もユダヤ教徒も無宗教を標榜する人々も、すべての人々を照らしておられる。そして「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙 3:20)と語られる。私たちを取り巻いておられる光なるお方に魂の扉を開き、命の道を歩もう。
2016/12/8(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書56:9-57:13 賛美 新聖歌242
イスラエルの民の中には神に従う人々と神に逆らう人々が混在していた。民を守り導くべき指導者たちは欲をむさぼり、神から託されたイスラエルの民を守るという働きを放棄している(56:9-12)。一方、わずかながらも神の慈しみに生きる人々もいた。決して多数ではないが真実に歩む人には平和が約束されている(57:1-2)。そして再び偶像礼拝に走る人々に厳しい言葉がかけられる。彼らは真の神を心に留めず、常に異教の淫行にふける。しかしこのような偽りの神々にどれほど犠牲を献げても救いはない(57:13)。ただ細々とではあっても真の神の慈しみに生きる人々、真の神に望みを置き、身を寄せる人々だけが地を受け嗣ぐのである。
悪人がはびこり、悪を行うことが良いことのように扱われる社会にあっては、正しい人は損をしているように感じる。まさに「正直者は馬鹿をみる」と感じる。しかし、神の救いはもはや訪れないのかと思うような状況であっても、神に身を寄せる者が聖なる山を嗣ぎ、救いを受けるのである。主に望みをおいて歩もう。
2016/12/9(金) 担当 高谷清師 詩編28:3-5 賛美 新聖歌 394
悪をなす者のしるしの第二は「主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。」ということである。歌の箇所についてカルヴァンは「人々に対して悪を働き、少しも害意を抑制しようとしない彼らは、神と事を構えているとは考えないからである。たとえ彼らは良心の苛責を感ずるとしても、故意にみずからにおもね、ついにはその頑迷のゆえに、愚かで無感覚になるほど、頑固に悪をなすに至るのである。第一に彼らはその繁栄のうちに酔い痴れて、神は彼らを愛している、また多くの悲運によって圧せられる善人らの救治を心にかけられない、とみずから信じ込んでいる。さらに、彼らはこの世界が偶然によって生起し、神の摂理によって統べ治められていないと考える。かくして彼らは盲目となり、昼日中でも何ひとつ見ないのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P340新教出版社)と述べている。バベルの塔を建てた人々は、神の統治を認めず、自らの業によって、自らの欲望を実現しょうとし、それによって神の裁きを招いた。今、人々は神を求めず、自らの力によって自らの欲望を実現しょうとしていないだろうか。成るのは神の御心だけである。
2016/12/10(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 12:4-7 新聖歌 311
クリスチャンはこの世に在って多くの困難や危険に見舞われることがある。世の権力者やサタンの攻撃に会い、迫害され、殉教に追い込まれることがあるかも知れない。しかし主は「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と言われた。神の配慮は被造物すべてに行き届いている。一羽の雀さえも忘れず、私たちの髪の毛一本までも数えておられる。そして世の権力者は殺した後何もできないが、真の神は殺した後で地獄に投げ込む権威を持っておられるお方である。真に恐れるべきお方はこの方である。”,,959″
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