2017/1/16-21
- 2017.01.16
- ディボーションの友
2017/1/16(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 1:16-18 賛美 新聖歌 339
ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と述べる。この箇所についてM.C.テニイは「著者は、神のかくすところのない本質は死すべきものの眼には決して示されたことはないけれども、神の真実の御性格は御父のいのちと愛との最も完全な表われである御子の中に見ることができるということを、明らかにする意図を持っている。」(ヨハネによる福音書P67日本基督バプテスト連合宣教団1958)と述べている。パウロは「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」(コロ 2:3)と記し、更に「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。」(コロ 2:9-10)と述べている。私たちの必要はキリストによって満たされ、私たちはキリストによって生かされるのである。
2017/1/17(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書61:1-3前半 賛美 新聖歌170
神に召された僕は神の霊を注がれて(1節)、彼は貧しい者に福音を宣べ伝え、囚われ人を解放する働きを与えられた。神がこの僕を選び、たてて福音を伝える時こそが苦しむイスラエルにとって解放と喜びの時である。そしてそのときにはイスラエルはもはや自己耽溺にふけることをやめて神を賛美する。神の救いを体験した者は神を賛美するのである。
これは後にイエスがナザレの会堂で読まれた箇所である(ルカ4:18-19)。イザヤ書において最初に預言されてから数百年の後に神の子であり、人の子であるイエス・キリストが救いの御業を成就し、イスラエルだけではなく世界の人々の救いを完成してくださった。私たちもこの大いなる恵みに感謝して主を賛美しよう。
2017/1/18(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 1:16-18 賛美 新聖歌 373
ヨハネがヨルダン川の向こう側、ベタニアで洗礼を授けていた時、エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたのに対してヨハネは「わたしはメシアではない」と言い、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。自らについて三回否定語を使っている。遣わされた人々が「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」と問うのに対してヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」答えたのである。ヨハネは主イエスの来臨に先立ってその道筋を整えるために遣わされた証し者である。キリストの証し者は、キリストを示すのであって、自らを示すのではない。パウロはフィリピの信徒たちに対して「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ1:20)と書き送っている。自らの名が隠され、唯キリストが崇められる証し者となろう。
2017/1/19(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書61:3後半-11 賛美 新聖歌19
神の僕に与えられた神の霊、神の力は民全体に拡がり、彼らは荒廃したエルサレムを再建する(4節)。かつて彼らを支配した人々が彼らに仕える。イスラエルは過去に受けた苦しみに応じて喜びを受ける。神は理由なく彼らを苦しめ、理由なく彼らに喜びを与えられるわけではない。かつてイスラエルの罪のために彼らに苦しみを与えられたように、今やイスラエルの正義のゆえに彼らの労に報い、彼等と契約を結び祝福を与えられる。そのときイスラエルは国々の間で栄誉を与えられるのである。
イスラエルは罪と堕落を通ってついに正義を行うものとされた。神からの恵みを受けたとき、彼らはもはや自らを誇り、傲慢になることはなかった。彼らは神を賛美する民とされた。神によって与えられる真の祝福は人をへりくだらせ、賛美へと導くのである。
2017/1/20(金) 担当 高谷清師 詩編29:9 賛美 聖歌 441
9節を新共同訳は『主の御声は雌鹿をもだえさせ/月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える/「栄光あれ」と。』と訳している。カルヴァンは『主のみ声は牝鹿に仔を産ませ、林を裸にする。すべての者はその宮で神に「栄光」と呼ばわって言う。』と訳している。そして「主のみ声は林を裸にすると言われているがそれは神がもっとも深い隠れ家や,洞穴に至るまで、透徹するのを遮ることができるような被覆は、存在しないからか、あるいは電光や雨や嵐が木の葉を落とし、木々を裸にするからである」と述べている。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P348新教出版社1970)ダビデは「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。(詩 139:7-10)」と詠っている。神は私たちの存在のすべてを知っていて下さる。私たちは神から隠れることはできない。また私たちに対する神の慈しみの眼差しの絶えることはない。常に神のみ前に真実に歩もう。
2017/1/21(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリント5:16-21 ほめよ80 「新しく造られた民が」
キリストの死と復活がキリスト者の土台であり、すべてである。キリストにあって罪に死に、キリストにあって義と認められて生きることは、神からもたらされたキリストにある新しい創造である。私たちは罪から贖われて神と和解させていただいた。この愛に迫られて神の和解の任務を与えられた。パウロはこの重大な和解の福音を伝えるために召されている使命を自覚しているので、生涯を通してすべての人にこの「神と和解」させ得いただきなさい(20節)と語り続けた。神との和解を得ている私たちもこの恵みを日々の生活を通して証詞しよう。”,,840″
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