2017/2/27-3/1

2017/3/27(月) 担当 高谷清師  ヨハネ2:13-22 賛美 新聖歌 137
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。神殿に入って行かれたイエスが最初に目にされたのは境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちであった。当時、ユダヤ人の成人男子は年に一回はエルサレムの神殿に上り、礼拝を献げることが求められていた。礼拝を献げる為には犠牲の動物が必要であった。また当時は外国に居住するユダヤ人も多くいたので両替をすることも必要であった。そのために彼らは神殿の境内で商売をしていたのである。それは互いの便宜と利益のためであった。この光景をご覧になったイエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」言われた。
 神の神殿は純粋に神を礼拝するところである。教会に集うのは神を礼拝するためであって、それ以外の目的、教会に集うほかの人々との人間関係を構築し、世俗の利を得ようといった目的で集ってはならない。

2017/3/28(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:6-8  賛美 新聖歌392
 エレミヤの召命の際のこの神との対話を読むと、モーセの召命の部分を思い起こす。神に召されたときに「私は力不足だからできません」と恐れを感じるのは旧約の中で神の偉大な働きを託された人々も同じであった。その度に神が彼らをどのように働きへと導いたのか?それは彼らの能力を超自然的、瞬間的に増し加えたのではなかった。神は彼らに対して約束を与えられた。「わたしがあなたと共にいる」という約束であった。
 現代の私たちも神から働きを託されたらふつうは自分の能力不足を知り、恐れて辞退したくなるだろう。しかし、神は私たちの力不足は御存じである。その上で尚、神が共にいるという約束を与えて働きに携わらせてくださる。一信徒として、あるいはフルタイムの献身者として、神は様々な方法で人々を召される。その時に神が共にいてくださるから、神の力によって働きに携わらせていただけるということを受け止め、召しに応えたい。

2017/3/29(水) 担当 高谷清師  ヨハ 2:13-22 賛美 新聖歌 390
 17節には『弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。』と記されている。多くの研究者はこの文言は主の十字架の後、弟子たちが理解した内容であって、この場では弟子たちはイエスの激しい行動に呆れてみていたであろうと言っている。そして宮平望師はこの箇所について『熱心(ゼーロス)』(という表現は、「沸騰する」という語に由来し、「食い尽くす」とは、完全に殺すことを意味する。したがって、一方でイエスが、商売の家ではなく神の家であるはずの神殿のことを熱く思い、神殿をイエスなりの仕方で神の思いに沿ったものにしようとしたため、最終的にはユダヤ人権力者たちと衝突し、十字架上で処刑されることを意味している。」(『ヨハネによる福音書 私訳と解説』新教出版社2010、P64)と語っておられる。またイエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタ 6: 24)」と教えておられる。困難を恐れず、心を一つにして主に仕えよう。

2017/3/30(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:9  賛美 新聖歌395
 9節は神に召された時に尻込みしたエレミヤに対して神が御手を伸ばして口に触れたと記されている。「触れる」という言葉はここでは神が人間に触れて聖化するという意味に用いられている。類似した場面を私たちはイザヤの召命の際に聞いている(イザヤ6:6)。イザヤはそれによって清められ、エレミヤはさらに語るべき神の言葉、すなわち使命を与えられた。この体験はエレミヤにとってはまさに神の臨在のリアリティの体験であり、これが彼の生涯の奉仕を支えた。エレミヤはこれによって神から働きを託されたことを確信し、迫害に遭っても召命のリアリティは揺るぐことなく、預言者としてぶれることなく語り続けた。
 「召命」は単なる思い込みや感覚ではない。神が選び、働き人として立てられたという霊的現実である。一人一人が神から与えられた働きを、リアリティをもって受け止め、あらゆる状況において働きを進めていく揺るぎない確信をもって仕えていただきたい。また、特に牧師、伝道者がこの召命を確信しつつ奉仕し続けられるよう、信徒全体が祈り、支えていただきたい。

2017/3/31(金) 担当 高谷清師  詩編31: 7-9 賛美 新聖歌 281
 四面楚歌の中に在って苦しみ衰えているダビデが主に目を向け「わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に、信頼します。」と信仰を告白する。取り囲む苦難から目を移し神を見上げた時、神の慈しみの眼に触れ、心は喜びで満たされ「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を/広い所に立たせてくださいました。」と、神を賛美する。ダビデは詩篇23篇においても「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩 23:5)と詠っている。パウロも「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:35-39)と述べている。いかなる苦難の時にも試練の時にも主を見上げよう。

2017/4/1(土) 担当 高谷由紀子師  ルカ10:38-42 新聖歌316
 主イエスがマルタとマリアの姉妹の家を訪れた時の出来事が記されています。この箇所はよく知られています。しばしばこの箇所から、もてなすために忙しく立ち働くことが否定的に理解されやすいのです。しかし、主はマルタのもてなす心遣いを知り、理解されました。その上で、より大切で、欠かしてはならいこと、第一に為すべきことをマルタに示し、思い起こさせてくださいました。それは主の御言葉を聞くことなのです。マルタもマリアも、共にイエスを愛し、主イエスに仕えた人々でした。篤い信仰を持っていても、時には最も優先すべきものを後回しにしてしまうこともあります。他のことも愛の表れであり、大切なことですが、優先順位をいつも確認しながら、第一のものを第一にしていくことが大切です。マルタが主に指摘していただいて思い起こしたように、私たちも忙しさの最中、多くの責任に追われる中にあって、「第一にすべきこと」を見失わないで、御言葉に耳を傾け続けましょう。”,,784″