2017/4/10-15
- 2017.04.10
- ディボーションの友
2017/4/10(月) 担当 高谷清師 ヨハネ2:23-25 賛美 新聖歌 346
ヨハネは「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」と述べている。イエスのなさったしるしを見て多くの人々がイエスを信じたが、その信仰はイエスの前には十分なものではなかったのである。主イエスはフィリポに対して「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハ 14:11)と教えておられる。確かに、しるしを見て信じる信仰は不信仰より良いが、十分なものではない。主が求められる信仰は、キリストが父の内におられ、父がキリストの内におられることを信じる信仰であって、それは聖霊の臨在の中で、神との深い交わりによって醸成されるものである。主によって宣教に遣わされた七十二人が帰って来て、喜んで主に「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と報告した時、主は「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ 10:17・20)と教えられた。現世利益を求める奇跡追及信仰への厳しい警告である。真実の、御心に適う信仰に歩もう。
2017/4/11(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:14-16 賛美 新聖歌 390
ここではイスラエルの地に住む人々に北からの災いが襲いかかると言われる。私たちの興味は北に位置する国は具体的にどの国かということに注がれる。パレスチナの北と言えば、王国時代を通してアラムやアッシリアなどがしばしば敵対してきた。しかしエレミヤ書の冒頭では具体的な国は名指しされていない。むしろここでは誰に、何故この災いが襲いかかるのかということが問題になっている。それは神の民に対して襲い掛かるのである。
神からの災いを受けるというときに、私たちは神を信じない人々に対する裁きを考える。しかしエレミヤが災いを受けると語ったのは神を信じていた人々であった。その理由も彼らが神を捨てて他の神々を礼拝したからだと言われる。すなわち、神を信じ、知っていながらも不従順であり背いた人々に対して神は裁きとしての災いを与えられた。神を信じる者の責任は、真実な神に応答し、忠実に歩むことである。このことを心に留めて今日も歩もう。
2017/4/12(水) 担当 高谷清師 ヨハネ2:23-25 賛美 新聖歌 390
ヨハネは「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」と語る。パウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(?テモ2:13)と述べている。世は、罪の世である。騙し、騙され、うまく騙した者が成功者として君臨する。正直者は常にバカを見る。キリスト教界においても事情は変わらない。主イエスは「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と教えておられる。バカを見つつ、真実に歩む兄弟姉妹方、忍耐をもってその歩みを全うしょう。「我欲と欺瞞と策略とへつらいに満ちた偉大な指導者」が御国に迎えられることはない。
2017/4/13(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:17-19 賛美 新聖歌 299
神はエレミヤに語るべき内容を示してから彼を遣わされた。腰に帯を締めて立てというのは(17節)、通常、戦争に出ていく兵士に与えられる命令である。神から委託された言葉を民に宣言する働きは、戦いなのである。そして兵士は戦場で戦う相手を恐れていることはできない。メッセージを伝えるべき相手を恐れていては大胆に神のことばを語ることができないのである。預言者が畏れるべきはただ神のみである。そして神への畏れをもって服従と信頼によってただ神に委ねきる時に、預言者は働きを全うすることができるのである。神のことばを聞くべき人々が、語られる言葉に敵対して語る者を攻撃するときも、ただ一つの預言者の拠り所となる約束は「神が共におられ、救い出す」ということに尽きる。
「神が我らと共におられる」という聖書全体を通じて語り続けられるメッセージをしっかりと受け取ろう。語るために召された者は神のことばを宣言し続けよう。また、語る者が神を畏れて従い続けるために、祈りをもって支えよう。
2017/4/14(金) 担当 高谷清師 詩編31:15-17 賛美 聖歌 265
隠された網に落ち、苦境に立たされたダビデを目にして、隣人も親しい人々も離れ去り、ダビデは孤立した。孤独の中で神に目を向けた時、そこにはいつも変わらぬ神の眼差しがあった。この眼差しに会ったダビデは苦境の中にあっても「あなたこそわたしの神」と、信仰を告白する。そして「わたしにふさわしいときに、御手をもって追い迫る者、敵の手から助け出してください。あなたの僕に御顔の光を注ぎ慈しみ深く、わたしをお救いください。」と祈る。
神は、世がもてはやす時にも、捨て去る時にも、常に神を信じる者と共に居てくださる。私たちが帰るところは神のみもと以外にはない。そしてダビデが「わたしにふさわしいときに、御手をもって追い迫る者、敵の手から助け出してください。」と祈っているところにも注目したい。コヘレトの言葉は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘ3:1)と述べている。主イエスは宣教の開始にあたり「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ 1: 15)と語られた。忍耐強く神の時を待ち望もう。
2017/4/15(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ 14:43-50 新聖歌 205
ユダはイエスを裏切るために接吻という手段を選んだ。接吻は挨拶の習慣であり、愛する師に対する尊敬と愛情をあらわす行為であった。このような方法をもってユダは3年間寝食を共にしつつ教えを受けた師イエスを祭司長や律法学者たちに売り渡した。このような方法で裏切るユダの姿を通して人間の姿が見られる。一方、主は「これは聖書の言葉が実現するためである。」と言って、神の贖いのご計画が成就するために、捕えようとする者たちに自らを委ねられた。それは神に背き、罪を犯し、滅びに定められた人間に対する愛の故であった。”,,772″
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