2017/4/24-29
- 2017.04.24
- ディボーションの友
2017/4/24(月) 担当 高谷清師 ヨハネ3:10-12 賛美 新聖歌 281
イエスが語られた「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」というイエスの言葉をニコデモは理解することが出来ず、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。それに対して主は「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と語られた。神は天地の造り主であり、私たちの造り主であり、私たちをはるかに超えて偉大なお方である。それ故、わたしたちは自分の理性をもって神のすべてを理解することはできない。信仰によって神を知り、救いに与るのである。
2017/4/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:4-7 賛美 新聖歌 172
神に選ばれた民が最初の時代に神に従順であったと語られた後、ここからはその後で起こったことが語られる。民は神から離れて行った。それは神が契約を破られたからではなかった。神には何の落ち度もなかった。しかし荒野での試練を数々の奇跡によって導いてくださった神の業をイスラエルは忘れ、約束の地に定住してその土地の実りによって生活し始めたとたんに「空しいもの」すなわち偶像の後を追い始めた。恵み深い神を離れて、律法で禁じられていた偶像礼拝を選び取った時、民は立ち止まって真の神は誰か、エジプトから救い出して荒野の旅路を守ってくださった方は誰かと問うこともなかった。
人が神から離れて偶像礼拝に陥る時、立ち止まって偶像礼拝の是非を問うたり、真の神を思い起こす余地も持たない。この様な事態に陥ることがないよう、日々主の恵みを数え、感謝をもって一日を終え、常に真の神の後を追い続けよう。
2017/4/26(水) 担当 高谷清師 ヨハネ3:13 賛美 新聖歌 235
主は「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」と語られた。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ 2:6-8)と述べている。キリストは父なる神と共に天におられた神であり、父なる神の御心によって人となって地上を歩まれた神であり、贖いの御業を成し遂げて死んで葬られ、復活によって死を滅ぼし、天に上られた神である。このように私たちの主は真の神であられ、真の人であられるお方である。それ故ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。イエスだけが唯一真の救い主である。
2017/4/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:8-9 賛美 新聖歌 299
イスラルの民は時の経過と共に神の恵みを忘れ、神でないものを神とする偶像礼拝に陥った。そのような事態において、だれが歯止めをかけることができるだろうか。そうすべき人は誰なのだろうか。本来、歯止めをかけるべき立場にあるのは律法を教える者、指導者たち、預言者たちであった。しかしエレミヤ書では民に警告すべき立場の祭司や指導者や預言者達までもが神の教えを理解せず、率先して神に背き、預言を与えても真の神ではなく偶像によって預言したと告げられている。民の中のあらゆる立場の人が神から離れるときに、神はそれを黙認なさったり、いつまでも許容なさったりしたのではなかった。神に背く者はたとえ選びの民であったとしても神が告発し、争うと言われる。
神の恵みを受けて神に従うという信仰を告白した私たちには責任が伴う。神の恵みに応答して神の御心に適う歩みをすることが日々求められている。
2017/4/28(金) 担当 高谷清師 詩編31:20-23 賛美 新聖歌 233
神を畏れる人々を陥れようとして、悪意をもって数々の網を仕掛ける人々の中に在っても、神は神を畏れる人々と共にあって彼らを守り、恵みを注いでくださる。この恵みをダビデは「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩 23:4-5)と詠っている。
パウロは「しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」(?コリ 2: 9)と述べている。サタンの罠に陥り、罪を犯し、永遠の死に向って絶望の中を歩いていた私たちのために、神はご自身の独り子を遣わし、このお方を十字架につけること―目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったこと―によって、信じる者に救いの道を開いてくださったのである。想像を絶する神の愛、神の恵みに感謝しょう。
2017/4/29(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ13:28-37 賛美 新聖歌 465
私たちは主が再び来られることは知っていますが、それがいつであるかは誰も知りません。天の父なる神だけがご存知です。だから私たちは主がいつ来られても良いように目を覚まして注意深く生活していなければなりません。いつどのような時にも主イエスと顔を合わせられるように備えることが大切です。すべてのことが確かに完成しますが、それがいつかは分からないのですから、怠けて眠っていてはならないのです。神の国に入るまでには時がまだ十分にあると思い、不注意に今を過ごしてはいけません。主が来られる日のために、永遠に滅びることがないように主の言葉に信頼して待ち望みつつ励みましょう。”,,710″
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