2017/8/28-9/2
- 2017.08.28
- ディボーションの友
2017/8/28(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:28-29 賛美 新聖歌 339
主は先に「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(5:24)とお語りになった。そして今「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」と語られる。私たちがみ言葉を聞き、信じた時永遠の命を与えられる。しかし、永遠の命を与えられた人も肉体は死し、滅んでいく。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(?コリ15:50-53)と述べている。ここにキリスト者の望みがある。
2017/8/29(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書8:1-3 賛美 新聖歌355
様々な偶像礼拝を列挙したあとで神の裁きが語られる。エルサレムの王、国の指導者たち、そして民も含めてすべての人々の骨が掘り出され、心酔していた偶像の前に散らされるという。死を免れた者にとっても「死は生よりも望ましいものになる」という。
人々は「神殿」という形によって無条件に守られ、心を込めて神との関係を保とうとしなくても習慣的に決まり文句を唱えれば、救いが与えられと考えていた。神のもとには、自分の必要が生じた時、あるいは伝統的に集まるべき時にだけ行けばよいと考えていた。そこには神の御業に対する感謝も、神への愛も失われていた。ここに至っては彼ら自身の罪を自覚することもできなくなっていたであろう。民が神を忘れ、神を自分の都合のために利用しているときにも、やはり神は裁き主である。最終的に神が裁きを下されると、それは考えられないほど厳しいものになる。手遅れにならないうちに、神と自分の関係を日々見直し、心から神を愛し、仕え、正しい関係を築き、保とう。
2017/8/30(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 5:30 賛美 新聖歌 394
イエスは「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」と語られる。先には「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。」と語っておられる。イエスは父なる神によって遣わされたお方である。遣わされたお方は遣わしたお方の意志を行われるのである。それ故、イエスの行われることはすべて正しい。私たちはイエスの言葉に完全に従い、それを行うべきである。それは父なる神の御心だからである。
2017/8/31(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書8:4-7 賛美 新聖歌233
エレミヤは一般常識的な問いを列挙していく。「倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。」(8:4)という問いかけの裏には、人は倒れたら起き上がり、離れたら立ち帰るものであるという普遍的知識が隠されている。それなのに、エルサレムの民は起き上がらず、立ち帰らない。自然の生物でも知っている「時」を彼らは知らないのである。ごく基礎的なことすら分からない民に対する嘆きと落胆を感じる。一方で、これは一度神に対する背きに無感覚になった者たちが、もう一度罪を自覚することの難しさをも伝えている。
私たちは当時のイスラエルと同じように神を嘆かせてはいないだろうか。常に心を神に向け、神との生きた交わりの中に歩もう。
2017/9/1(金) 担当 高谷清師 詩編34:9-11 賛美 新聖歌 172
主の驚くべき救出の御業を体験したダビデは「味わい、見よ、主の恵み深さを。」と語る。この「味わい、見よ」言う句についてカルヴァンは「ダビデはここで、いわば行きずりに、人間の怠慢を非難する。なぜならば彼らは、神の慈愛を知ろうとしないからである。それは彼らにとって単なる認識以上のものであるべきである。この味わえという語によって、ダピデは彼らが味覚を持たないことを示している。さらに彼はその理由を提示する。それはすなわち、彼らが神からのもろもろの良きものを貪り食いながら、これを味わい見ることなく、あるいはかえってこれを隠し、邪悪な嫌悪の念によって沈黙を守るからである。そこでダビデは彼らに向かつて、ただその感覚を目覚めさせ、味覚を備えた口蓋を持つようにと命ずるのである。それは神の慈愛が、明白かつ明らかに彼らに知られるためである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P416新教出版社1970)と述べている。神を信じる者の上には多くの神の恵みが注がれている。私たちはそれに慣れてしまって恵みに感謝することが少ないのではないだろうか。ダビデは更に「わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます。床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」(詩 63:6-7)と詠っている。神の恵みの一つ一つを数え、感謝と讃美を献げつつ歩もう。
2017/9/2(土)担当 高谷由紀子師 ヨハネ 9:1-12 賛美 新聖歌 452
イエス様の一行は通りすがりに、生まれつき目の見えない人に出会いました。この人について弟子たちはイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。人間は世界中どこにおいても病を抱え、苦しんでいます。そして病の原因を本人や家族の罪に求めようとします。弟子たちの問いに対しイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。そしてイエスはこの人を癒し、神の業を現わされました。この出来事によって人々にイエスが真の神であり、真の癒し主であることが証しされたのです。”,,694″
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