2019/1/7-12

2019/1/7 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 346

 森野善右衛門師は「重点的に六つの奇跡(しるし〉をとりあげながら、しかしそのいずれの場合においても、ヨハネの記述の重点は、奇跡それ自体ではなく、それが証ししているできごとの核心にあるイエスの人格と言葉におかれていることは明らかである。奇跡それ自体を御利益として、それによって信じる信仰を、ヨハネハのえがくイエス〉はきびしくいましめ、そのようなユダヤ人たちの軽信を信用しないのである。それは「見て信じる」奇跡信仰であり、自分の利益と幸福のために信じる「御利益信仰」である。カルヴァンの註解は、この箇所で一だんとさえわたっている――「かれ(ヨハネ)はこう言おうとしているのだ。ここに語られている人たちは、キリストの神的なカを讃嘆し崇敬し、服従してかれ(イエス〉の弟子たちになった、と。そうでなければ、奇跡それ自体では、信仰をもつのに十分ではあり得なかったろう。だから、この信ずるという語は、ここでは、キリストの教えをうけ入れる従順さと敏速さ以外の意味にとってはならない」(『ヨハネ伝註解』山本功訳三八九ページ)。」(説教者のための聖書講解No31324日本基督教団出版局1980)と述べておられる。現今の奇跡至上主義への警鐘として受け止めたい。 

2019/1/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:23-27 賛美 新聖歌178

 ダマスコに対するさばきが語られる。ダマスコは北王国の北に位置していた。北王国の末期にパレスチナの北東、メソポタミア地方で強大になったアッシリアがパレスチナの国々を侵略しようと攻めてきたとき、ダマスコは北王国と共に反アッシリア同盟(西方同盟)を結び、南王国にもその同盟に加わるよう圧力をかけた。長い歴史を持ち、イスラエルの人々とも様々な方法で関わってきたダマスコへの裁きでは具体的な歴史状況は語られず、一般化した表現で述べられるだけである。それでも神に従順ではなかったアラムへのさばきは、ほかの国々と同様に神自らが行われる火による裁きであった。

 真の神に直接関わらず、偶像礼拝をしていた国々は「イスラエルの神」の裁きを受けて滅びるとは考えていなかったかもしれない。しかし、イスラエルの神は天地万物の神であって、すべての人が聞き従うことを求め、それに対する応答によって裁かれる。神を知り、聞き従うことが造られたすべての者にとって大切なことである。今日、私たち自身が神に聞き従い、すべての人々が聞き従えるよう主の前になすべき歩みを歩もう。

 

2019/1/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 394

 イエスの為された奇跡を見ても、見たすべての人がそこに神を見出したのではない。ヨハネは「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」と記している。奇跡が行われ、福音が提示される時、それは、見聞きする人々を二分する。信じる人々と信じない人々に、である。パウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(?コリ2:15-16)と述べている。明確に福音が伝えられたとしても、すべての人が信じ救われるわけではないであろう。しかし私たちは今日も福音を伝えよう。神の御心の成る為に。

 

2019/1/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:28-33 賛美 新聖歌361

 一つの国ではなく、諸民族に対するさばきが語られている。まとめて言及されている民族は天幕と羊の群れを持つ人々である。そして彼らは城門やかんぬきを持たない。すなわち彼らは町を建てて定住する人々ではなく、季節によって移動しながら生活する遊牧民であった。具体的にこの人々がさばきを受けたその行為について記されていないが、ここで知ることができるのはバビロンによって攻撃を受けたということであり、主が彼らに臨んだこの災いをもたらしたといわれる。

 これらの民がさばきを受ける具体的な理由は私たちに対して示されてはいない。しかし様々な国々に対するさばきの言葉から類推して、神に不従順であったからだろうと述べることができる。神は信じて従う人々のみの神ではなく、全地の主であり、すべての人々の神である。

 

2019/1/11(金) 担当 高谷清師  詩 40:13-14  賛美 新聖歌 172

 詩人は「悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。」と述べる。人生の歩みには山あり谷あり、順風の時もあれば逆風に会って苦闘する時もある。詩人は今、逆風にあい、苦難の中にある。彼は罪に陥り、暗黒の中にあって御顔が見えなくなっている。そのような状況の中にあって「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。」と祈る。罪に陥り、御顔を見失い、暗闇の中にあっても主を求めることが出来たのは、かつて彼が体験した恵みの御業であり、大いなる集会で隠すこと無く語った神の真実と救い、慈しみとまことであった。聖書は「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50:14-15)と述べている。苦難の時、暗黒に閉ざされ、御顔が見えない時―たとえそれが自らの罪によるとしても―悔い改めて主のみ名を呼ぼう。主は必ず愛と赦しをもって応えてくださる。

 

2019/1/12(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 444 クリスチャン生活において試練に遭うことはしばしばで誰でも経験することです。旧約の詩人は「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。」(詩  66:10)と詠っています。また、パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ロマ 5:3-4)と述べています。試練の中にある時は苦しく、喜ばしい時ではありませんが、試練によって忍耐を学び、それを乗り越える時、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人に整えられるのです。試練の中にあっても主を見上げ、感謝と喜びをもって歩みましょう。