2020/4/27-5/2
- 2020.04.27
- ディボーションの友
2020/4/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:16-17 賛美 新聖歌 216
イエスは「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」と祈られる。この「真理」について伊吹雄師は「真理とは、そこで「生」が真の生となるものである」(〔ヨハネ福音書注解皿P248知泉書館2009)と述べておられる。またカルヴァンは「この言という語は、ここでは福音の教えの意味に用いられている。使徒たちがすでにその先生の口から聞き,やがて他のひとたちに対して,その告示者となる教えである。(中略)福音は、すべての信者に救いを得させる神の力であるから[ローマ1:1」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下新教出版社1965下P552)と記している。そして山田京二師は「イエスの言葉が真理であり(一七節〉、そのイエスの言葉とは「わたしが父におり、父がわたしにおられること」である(14:10)。イエスの真理は、いつも父と子の一致という事に帰っていく。そこに集中していく。父と子の一致にならって、彼らも又一致することによって、この世のものでないことが明らかになる。これが聖別されることである。」(説教者のための聖書講解No33P20日本基督教団出版局1980)と述べておられる。福音は人を罪から清め、新しく神の子として生まれさせ、キリストとの交わりにいれ、同じように新生に預かった人々の交わりを形成し、世にキリストを証ししていくのである。
2020/4/28(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:5-6 賛美 新聖歌378
裁きの宣言の真っただ中で、アモスはしばらく神ご自身に目を向ける。どのようなときであろうと、神の主権と力は変わることがない。主の力に全地は動揺し、自然界ですらも変容を見せる。このことから、神の力が再認識される。そしてそれは賛美へとつながる。
神と共に進める歩みにおいて、神の恵みを体験できないと感じる時が続くと、神に目を向け、その偉大な御業を理解して神を賛美するその言葉が途切れがちになってしまうようなことがないだろうか。たとえ私たちに対する厳しい裁きを語り、実行されているその時であっても、神の威光と尊厳と永遠の支配は変わることがない。困難を感じ、厳しい状況に立たされる時にこそ、神の御顔を仰ぎ見つつゆらぐことのない信仰を表していきたい。
2020/4/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:18-19 賛美 新聖歌 372
イエスは「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」と祈られる。この箇所をフランシスコ会訳は「彼らのために、わたしは身を捧げます。/彼らも真理によって、/捧げられた者となるためです。」と訳し「直訳では、「身を捧げます」は「自分自身を聖なるものとします」、「捧げられた者となる」は「聖なるものとされる(聖別される〉」。イエズスが人々のために犠牲として自分を父〈神〉に捧げたように、弟子たちも人々の救いのために犠牲として生涯を神に捧げることになる。」との注釈を付している。カルヴァンは「かれらのために、わたしはわたし自身を聖別します。かれらもまた、真理のうちに霊別されるためです。」と訳し、「キリストはこの言葉によって、福音の教えを介してわたしたちのうちに成就されるこの聖別が、どのような源あるいは泉から流れ出てくるのか、さらに明瞭に示しているのである。(中略)神の霊は、イエス・キリストの聖性から出てわたしたちを澗おし、わたしたちをその聖性にあずかる者たちとする。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下P552新教出版社1965)と述べている。
イエスの贖いの御業を信じる者は、その信仰によって世から分離され、神のものとされるのである。それ故、私たちは世の者ではなく、神に属する者として歩むのである。
2020/4/30(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:7-10 賛美 新聖歌159
神の裁きに関して、イスラエルだけではなく、世界全体を見るように招かれる。イスラエルも神の目には他国の人々と同じ人間なのである。神はイスラエルであろうが、世界の王国、諸国民であろうが、罪ある者は裁き、地の面から断つと言われる。イスラエルもその民族に属するがゆえに神の赦しと守りの中にいるというものではない。イスラルの中でもやはり神の基準で公平な裁きを受ける。そして罪ある者は剣で死ぬのである。イスラルの中でふるいにかけられてなお残るのは正しく歩む者である。
ここに私たちが日々神の前に正しく生きる動機がある。私たちは教会という組織、形、また神に赦されている者だという立場によって裁きをまぬかれるのではない。私たちは立場や所属によって歩むのはなく、神を愛する純粋な思いによって歩もう。
2020/5/1(金) 担当 高谷清師 詩 51:16-17 賛美 新聖歌 18
詩人は「神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。」と詠う。詩編6篇には「主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。」(詩 6:5-6)と記されている。ロマ書によると人は皆、罪を犯しのである。そしてエゼキエルは「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。(エゼ 18: 4)」と述べている。罪を犯して死に定められた人間のために、神はキリストによって救いの御業を成し遂げてくださった。そこでパウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)と語り、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ 6: 23)と語る。
罪によって死んでいた者が神の救いの御業により、永遠の命を頂いたのである。われらのなすべき祈りは、肉の欲を満たす要求ではなく、命の主である神をほめたたえることである。
2020/5/2(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ1:3-7 賛美 新聖歌 416
パウロは主から受けた福音宣教の使命を遂行していくうえで?コリ11:23-28に記しているように、数々の試練と苦難に遭遇しました。その試練と苦難に勝利させたのは十字架で死に、復活されたイエス・キリストでした。パウロはこのお方を「忍耐と慰めの源である神」(ロマ 15:5)と呼んでいます。パウロはキリストの故に受けた苦難に、キリストから与えられた慰めによって勝利し、同じ苦難の中にある人々を慰めることが出来たのです。私たちもキリストに結び付くことによって人々の慰めとなる聖徒になりましょう。
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