2020/9/7-12

 2020/9/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 25-27 賛美 新聖歌 323

 ヨハネは「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」と記している。この箇所についてカルヴァンは「キリストは、いわばこう言っているのである。わたしはもう、こののち地上にとどまって、あなたに息子の義務をはたすことができない。だから、この者をわたしのかわりに立てますが、かれがわたしのつとめをはたしてくれるでしょう、と。キリストがヨハネに、見るがよい、おまえの母を、と言う時も、おなじことを言っているのである。それというのも、かれはこの言葉によって、ヨハネに、彼女を自分の母親としてうけ入れ、自分の母親に対するのとおなじ心づかいをもって彼女を扱うように、命じているのだからである。この時からその弟子は彼女を自分の家にひきとった。(中略)これによって、使徒たちが家族をもっていたことがわかる。それというのも、もしヨハネに家がなく、なんらかの生活方便がなかったなら、イエス・キリストの母親を寄食させることも、ひきうけることもできなかったろうからである。だから、使徒たちはその財産も仕事もすべてなげ出して、まったくの無一物でキリストのところに来た、と言うひとたちは,勝手な想像をしていることになる。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下P598599新教出版社1965)と記している。イエスは「『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」(マコ 7:11-13)と語っておられる。パウロも「だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。」(?テモ3:2-4)と述べている。キリスト者は世における社会的責任をしっかりと全うする者でなければならない。

 

2020/9/8(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:8-9  賛美 新聖歌166

 これまでの神の行為とご計画とは一転して、預言者の苦悩が語られる。ユダに今まさに起ころうとしている神の裁きを知り、その言葉を民に告げるべく召されたミカは悲しみと苦悩に満ちて嘆きの叫びを上げる。ミカは自分自身のために嘆いているのではない。神の裁きを人々に伝える時に自分自身が経験するかもしれない反発や迫害について思い悩んでいるのではない。ミカが苦しんでいるのはエルサレムが大きな痛手を受けて立ち直れないほど苦しむ現実を見るからである。神の言葉を託されて人々に伝える者は、現実を見る新たな視点が与えられる。それは罪に満ちた現状を神がどのようにご覧になるかという視点であり、それに対して神が何をしようとしておられるかという視点である。裁きの言葉を受け取るエルサレムとその民をよく知り、愛するからこそミカは苦しんだ。

 神と出会い、神と共に生きるということは、信じない人々とは異なる視点を持つことであり、それゆえに裁きに定められた人々のために嘆き苦しむこともある。しかしこの嘆きと苦しみから逃げるのではなく、神の前にとりなし、人々に警告し、神の赦しと救いを受けるように愛をもって語っていきたい。

 

2020/9/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 25-27 賛美 聖歌 128

 この箇所についてジークフリート・シュルツは「カナの婚礼の記事において旧約の契約以上のものを象徴し、そして今ユダヤ人の王の十字架の下で現れているこのイエスの母は、十字架につけられた者をかのメシアとして信じるユダヤ人キリスト教の象徴であり、一方愛弟子の方は、世界に拡がった異教人キリスト教を代表しているのである(一三23以下および二02以下の註解を参照!)。救済者はこの世を去ろうとしている今、ユダヤ人キリスト教と世界的規模の異教人キリスト教という二大キリスト教共同体が母と子の関係にあるべきことを、命じているのである。イエスの母によって象徴されるユダヤ人キリスト教は、全世界に広まった異教人教会を「子」として理解しかつ受けいれ、一方異教人キリスト教は、自分の出発点であった母なるユダヤ人キリスト教会を尊敬しなければならない。」(NTD新約聖書註解4ヨハネによる福音書P449450NTD新約聖書註解刊行)と述べている。分裂に分裂を繰り返し、一致を求められている教会にとって、心に留めるべき解釈の一つである。

 

2020/9/10(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:10-15  賛美 新聖歌396

 ユダの町々の名があげられ、それぞれの町の現状を嘆いている。南王国の町々が次々と攻められて荒廃していく。そこに住む人々は驚き、苦しむが、これは神の裁きである。この苦境ですら、神が支配しておられる歴史の中で神から与えられたものであった。ミカは神からの裁きとしてこれらのことを語ることによって、ユダの人々を、裁きを行われる神の前に立たせる。神は恵みと慈しみに満ちた神であり、また、人々が神の前に不忠実な時にそれを正しい道へと連れ戻すために裁きを行い、厳しい方法で教えられる神でもある。

 大きな嘆きを引き起こす様々な苦難が神から与えられた裁きであるという現実をどう受け止めるべきであろうか。簡単に苦難はサタンからくるものであり、排除しなければならないと考えるばかりではなく、苦難において神が何を教えてくださっているのか、何を学び、何を改めるべきかを考えることもまた大切である。それらを知り、苦難の中で悔い改めて神に従うことでさらに私たちは神に近づくことができる。

 

2020/9/11(金) 担当 高谷清師 詩 56:2-5  賛美 新聖歌 281

 23節において詩人は、彼の敵―戦いを挑む者・陥れようとする者―によって絶えず踏みにじられ、多くの者が戦いを挑んでくる状況の中で、詩人の心は恐怖に満ち、神に憐れみを求めている。恐怖の中から神を見上げ、神への信頼を言い表す。その時、彼の心に御言葉が与えられ、御言葉は彼の心から恐怖を駆逐し、平安をもたらす。そして「肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。」との勝利の告白をもたらす。

 私たちは私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、死に勝利してよみがえられた主イエスを信じる信仰によって救われ、死から解放され、永遠の命の恵みに与り、感謝と喜びに満たされている。しかし目前に危機が迫ってくるとき、主イエスを見失い、恐怖に支配されて右往左往するのが人の常である。そのような時、立ち止まって主イエスを見上げ、御言葉をひもとこう。そうすることに.よって「神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。」との詩人の告白はわたしのものとなる。

 

2020/9/12(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 6:19-21  賛美 新聖歌 399

 イエスはこの箇所において「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」と教えておられます。パウロも「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(?コリ 15: 50)と述べています。肉の思いは地上の富―世の地位、権勢、名誉、財産等―を求めます。それら滅びゆくものです。それらが増し加わる時、人のそれらに執着し、捕らわれ、神様から離れ、滅びゆきます。それらは神の国を継ぐことはできないからです。私たちは信仰によって神の栄光を求め、天に宝を積む歩みをしましょう。