2021/5/17-22
- 2021.05.17
- ディボーションの友
2021/5/17(月) 担当 高谷清師 コロ 1:28-29 賛美 新聖歌 372
パウロがキリストを宣べ伝えているのは、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるためである。テサロニケの信徒への手紙?においては「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(?テサ 5:23-24)と述べている。人間は不完全な存在である。古来、洋の東西を問わず、誠実に生きようとする人たちは自らの不完全を悲しみ、完全に至る道を捜し求めてきた。その誠実な努力には敬意を表する以外に無い。しかし、完全に至る道は人の内にはない。それは十字架の内に、福音のみにある。それ以外にはないのである。福音を宣べ伝えよう。
2021/5/18(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:17-19 賛美 新聖歌209
ハバクク書は神の厳しい裁きを語ってきた。イスラエルの民も神に助けを求めて叫んでいるのに聞いていただけないという嘆きを発するところから始まっていた(1:2)。神は人間の罪を指摘し、厳しい裁きがあることを断言された。そして信仰者に対しては「しかし、神に従う人は信仰によって生きる(2:4)」という約束を語られたが、現実にはまだそれを見ていない。3章においても強大な力をもって諸国を裁くために神が来られる様子を描写する。圧倒的な神の力の前に預言者自身も恐れでいっぱいになる中、最後には驚くべき変化がハバククに起こる。ハバククが目を上げて畑を見ても作物は相変わらず実らず、家畜の声も絶えている。しかし、ここで終わることはない。なんと、全く変化のない目の前の現実を見ながらもハバククは主によって喜び踊るのである(3:18)。常識的に考えれば、彼は気が狂ったのだろうかと問われるだろう。しかし、ハバククは変化のない現実を目の前にしながらも、必ず神が救い出してくださる、敵を裁いてくださるという確信を得たのである。
信仰の目で見るものは現状を見る身体的な目が見るものとは違う。私たちも信仰の目で見ることができる。主の言葉を聞き分けよう。
2021/5/19(水) 担当 高谷清師 コロ 1:28-29 賛美 新聖歌 136
パウロは「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」と語る。コリントの信徒への手紙?においては「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(?コリ 15:10)と述べている。またコリントの信徒への手紙?においては「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(?コリ 1:12)と述べている。使徒たちに対して「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と命じられたイエスはまた「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24:49)と語っておられる。
宣教の働きの力は神による。へりくだって聖霊の力に従って福音を証ししょう。
2021/5/20(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:1 賛美 新聖歌474
これからゼファニヤ書を読み始める。ゼファニヤはヨシヤ王の時代に預言した。ヨシヤ王と言えば、ユダの王たちの中でも神の目にかなう正しい王として覚えられている。8歳という若さで王位に就き、即位後18年目の神殿修復工事の際に見つかった律法の書に従って宗教改革を行った。彼の治世にユダの信仰が復興し、アッシリアの脅威も遠のき、ユダには素晴らしい時代が到来するかという期待が膨らんだときに突然戦いで命を落とした。信仰復興の時代に語った預言者の言葉は希望と祝福に満ちているかと期待して読むと、意外にも厳しい言葉が連なっている。これはゼファニヤがヨシヤ王の治世のごく初期に預言したからである。まだ先代のアモンやさらにその前のマナセという悪を行った王たちの時代の習慣が大きな影響を持っていた時代に彼は語っている。
悪に満ちた時代、まだ神に立ち返る兆しが見えない中でゼファニヤは何を語り、どこに希望を見出したのだろうか。期待をもってみ言葉を読もう。
2021/5/21(金) 担当 高谷清師 詩 62:4-5 賛美 新聖歌 427
詩人は自分を棄て、迫害する者となった昔の友人たちについて語る。彼らは詩人を亡きものにしようとして一団となり人を倒れる壁、崩れる石垣とし、彼が身を起こせば、押し倒そうと謀るのである。常に欺こうとして待ち構え、口先で祝福し、腹の底で呪う。どこかの党派の選挙のようである。それはキリスト教界においても散見される。真理の言葉を与えられているキリスト教界においてなぜそのようなことが起こるのであろうか。イエスを誘惑したサタンはイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えようj と言ったのである。世の栄華、栄光に目を奪われる時、そのようなことは起こる。このような状態を目にしたパウロは「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(フィリ 2:21)と語る。そして「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリ 2:4)と勧めている。それは「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」(一コリ 15:50)からである。常にイエスに目を注ぎ、神の国を求めつつ歩もう。
2021/5/22(土) 担当 高谷清師 コロ 2:1-5 賛美 新聖歌 427
この箇所について徳善義和師は「この手紙の筆者とコロサイとその周辺の教会とは闘いに直面している。それは肉の闘いではないし、この世の力による闘いでもない。霊的な闘い、福音の真理をめぐる闘い、信仰の闘いである。この闘いに臨んでいるからこそ、筆者はこの手紙の受取人たちと確認し、共有しておかなければならないことがある。2:1-5は、これについて共通の確認を得ようと試みる呼びかけにほかならない。(中略)キリストは「神の秘められた計画である」と言われる。キリストこそ神の奥義、ミユステリオン、秘密にほかならない、との信仰告白である。これは信仰にとって「キリストのみ」、また「キリストがすべて」という信仰告白である。およそキリスト教の衣を着ていれば、キリストに反対というわけはないが、問題となるのは、キリストにプラスアルファを付け加えるところである。救い主キリストに集中せず、哲学的なキリストであったり、倫理的なキリストであったり、文化的なキリストであったり、政治的なキリストであったり、さまざまな衣を着せてみせるのである。人間的に考え出されたキリストを描き、説く。ここに「巧みな議論」もっともらしい議論)が生まれ、成り立つ。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P239-240日本基督教団出版局2012))と述べておられる。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。どんな時にも「キリストがすべて」という信仰告白を共有し、固く立って歩もう。
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