2021/10/4-9
- 2021.10.04
- ディボーションの友
2021/10/4(月) 担当 高谷清師 コロ4:7-9 賛美 新聖歌 433
パウロはティキコについて「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と語る。「愛する兄弟」の「愛する」という語について牧野信次師は
「「親愛なる」と相互間の個人的な親密さを表わす意味合いより、なお一段と深い内容をもっている。すなわち相互間の友情に見られるような、二人の人間の間の理解と共感に基づく「愛」ではなくて、実に神から与えられた無償の恵みとしての愛が、現実にお互いの上に注がれていて、これを再び他人の上に及ぼしていこうといった、合言葉のような気持ちが、「愛に浴した」というこの言葉に含まれているのである。使徒がテキコを「愛する兄弟」と紹介するとき、彼らの生活の中でそのような愛が具現しており、テキコを迎えるであろうコロサイの人々との間においても同様であることが示されていよう。」(説教者のための聖書講解No42P72日本基督教団出版局1983)
と述べておられる。キリスト者の愛、それは人間の間の互いの理解と共感に基づくものではなく、一人一人が心を開いて十字架の下に立ち十字架から注がれるアガペーに満たされ、その愛が教会に満ち、溢れた神を知らない人々をも潤していくものであるべきである。
2021/10/5(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書5:1-4 賛美 新聖歌315
第六番目の幻である。ここでもゼカリヤは飛んでいる巻物の幻を見るが、その巻物には全地に向かって出ていく呪いが書かれている。穏やかではない。この巻物に書かれた言葉はただそこにあるだけではなく、実際に力をもって作用し、事を成し遂げる。ユダの地には捕囚を経てなおも偽って誓い、盗みを行う人々がいた。新たな生活を始めるときに神は彼らを罪に歩むままにはなさらない。この地において悪のゆえに争いが生じるならばそれを正しく取り扱い、裁くべきを裁かなければならない。
民としての再出発の時に、神は明確に悪を行う者とその家を滅ぼされる。厳しい宣言である。悔い改めることなく悪を重ねる人に対する神のさばきは明確である。これを通して新たな神との歩みが始まる。私たちも常に心を神の前に吟味し、罪が示されたならば神に告白し、悔い改め、神と共に正しい歩みを始めよう。
2021/10/6(水) 担当 高谷清師 コロ4:7-9: 新賛美 新聖歌 112
パウロはティキコをコロサイの教会に送るにあたって「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。」と述べている。この箇所についてカルヴァンは
「パウロは彼がコロサイ人にどのように気を配っているかを彼らに知らせるために、彼らにいわば証拠を与えて彼らに確証している。すなわち、彼は牢獄にあり生命の危険に瀕しているが、自らのことを忘れ,テキコを彼らに送って、彼らの情況を顧慮しているからである。このことに、使徒パウロの慎重とともに特別な熱心が輝いている。というのは,彼が監禁されており、福音のために死の危険にさらされているのに、福音の進捗に従事しすべての教会に気を配ることを止めないことは、決して些小なことではないからである。このように、彼の身体は閉じ込められているが、その心は,何かよい事に常に従事しようと気をつかって、そこからいたる所へ遠くまで及ぶ。他方、彼の慎重は、必要がある限り彼らの信仰を固くし、偽使徒の狡猾に抵抗するため適切な思慮ある人を送ることに、そして、彼らがすべての真の教師の間に教えの点で大きい一致があることをはっきりと知り、彼らが以前にエパプラスから学んだのと同じ教えをテキコから聞くまで、エパフラスを彼の許に留めておくことに、輝いている。これらの例が、われわれを励まして同様な心構えを真似るようにさせるように、これらの例を注意して熟考しよう。」(カルヴァン新約聖書注解Ⅺピリピ・コロサイ・テサロニケP160新教出版社1970)
と述べている。いかなる時にも、全ての兄弟姉妹に、キリストの愛をもって配慮することの出来る練達したキリスト者となろう。
2021/10/7(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書5:5-11 賛美 新聖歌356
エファ升の幻である。ゼカリヤが見た升の中には女が座っていた。幻が語り進められるにつれてこれは実在の一人の女性ではなく、人間の邪悪さ、罪を表した姿であることがわかる。升に閉じ込められている「邪悪そのもの」は升から出ることは許されず、その中に閉じ込められてシンアルの地、すなわちチグリス川とユーフラテス川の間にある神に反抗する地に運び去られる。神がご自分の民を再び建て上げられる時、悪は完全に取り除かれる。悪自体が逃れようとしてもそれは神の支配の内に閉じ込められて、自由になることはできない。そうして悪のために築かれた神殿、すなわち人々が真の神を恐れず偶像礼拝に明け暮れる反逆の場所へと追いやられる。
現実にこの地の上には悪がはびこっている。私たちはそのことを知って常に霊の目を開き、悪を拒まなければならない。私たちが神の支配のもとにとどまり、神に従うことこそが私たちを神の守りと支配のもとに生かす道なのである。
2021/10/8(金) 担当 高谷清師 詩 賛美 新聖歌 251
詩人は「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。敵の脅威からわたしの命をお守りください。わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」と祈る。彼は今、中傷と悪意に満ちた陰謀の中に在って命の危険を感じている。しかし、彼は信仰によって神こそがそのような危険からお守りくださるお方であることを知っており、神に祈り求めている。ダビデは故無く命をつけねらうサウルからの逃避行において「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」(詩23:2-6)と詠っている。いかなる状況下にあっても神に信頼して歩もう。信仰者にとって、神はわが避け所である。
2021/10/9(土) 担当 高谷清師 コロ4:7-9 賛美 新聖歌 358
パウロは「あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。」と記している。フィレモンへの手紙によるとオネシモはコロサイ教会と関係の深いフィレモンへの奴隷であったが、彼のもとから逃亡した。その後、パウロと出会い、回心してキリスト者となり、パウロに仕える者となった。パウロはオネシモのことをフィレモンへの手紙において「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(フィレ 1:10)と述べている。更に「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」(フィレ 1:11)と述べ、「わたしの心であるオネシモ」(フィレ 1:12)と言っている。本書簡においては「忠実な愛する兄弟オネシモ」と記すのである。
人はキリスト・イエスを信じて救われることにより、「役に立たない者」から「役立つ者」へ「奴隷」から「忠実な愛する兄弟」へと変えられるのである。
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