2021/12/13-18
- 2021.12.13
- ディボーションの友
2021/12/13(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:-12-17 賛美 新聖歌 355
パウロは「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」と語る。パウロが使徒職に召された時、神はアナニアに対して「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使9:15-16)と語られた。またパウロは「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(Ⅰコリ11:23-29)と述べている。更にパウロは殉教の死を遂げたと伝えられている。これらのことから「主の恵みに満ちた歩み」とは、「世的に豊かで安楽に満ちた状態」を指すのではなく、日々主と共に歩むことであることを銘記しよう。
2021/12/14(火) 担当 ラウジー満世師 )ゼカリヤ書10:1-2 賛美 新聖歌302
1節では雨を与えるのは主なる神であると言われる。世界を造り、支えておられる主が雨を与えられるお方であることをはっきり語られており、それは当然のことであると思える。この当時のユダの人々にとってはどうだっただろうか。イスラエルの歴史の初めから常に偶像礼拝が禁じられた。聖書の中にも偶像の名がいくつも言及されているがその中の一つはバアルであった。預言者エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと雨を降らすことについて戦ったことは良く知られている。バアルを偶像礼拝する人々にとって、これは稲妻を武器として雨を降らせる神であった。そのことを思う時、ゼカリヤ書10:1で雨を主なる神に求めよと言われ、バアルではなく主が稲妻を放ち豊かな雨を降らせると宣言されていることがより深い意味を持って迫ってくる。
私たちは当然のように自然の恵みを受けている。創造者である神が雨を与え、太陽を与え、暖かさと寒さを与えて下さることを感謝している。しかし世の多くの人々はこれらの恵みを偶像の手に帰する。人々が真の神を知り、自然の恵みの感謝を正しいお方にささげることが出来るように祈ろう。また私たちも恵みの源である神をしっかり見つめ、主に感謝をささげよう。
2021/12/15(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:-12-17 新賛美 新聖歌 225
パウロは「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と語る。ロマ書においては「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう」(ロマ 7:24)と述べている。大使徒パウロも自らの罪を深く自覚し、それを悲しみ、罪を赦す権威あるお方に依りすがりつつ歩んだのである。イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と教えておられる。人は聖霊によって真理に導かれ、罪の自覚を与えられ、謙遜にされ、悔い改めへと導かれる。罪の告白と悔い改めは私たちに救いを得させる。悔い改めが求められるのは未信者だけではない。信仰の初心者だけではない。信仰歴の長い人々にも、指導者にも求められるのである。私たちの信仰生活は朝に罪からの守りを祈り、夕べには罪の告白と悔い改めによって神の赦しを求める祈りと御言葉に対する確信によって閉じられるべきある。
2021/12/16(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書10:1-2 賛美 新聖歌434
2節ではさらに雨が降らないという状況について述べられている。ここではテラフィムという偶像のことが語られ、雨が降らない中で人々がさまよい、羊飼いがいないので苦しんでいると語る。物理的に雨が降らない状況から一歩踏み込んで、ここでは雨を用いながら魂の渇き、つまり救いを失った状況について述べているようである。人々が救いという恵みの雨を求めても、その求める先がテラフィムであるならば救いは与えられない。占い師という霊の世界を扱いながらも真の神に敵対する者に救いを求めても得られない。それは人々を惑わし、真の救いから遠ざけるのみである。
今の時代にも占いやスピリチュアル等、表現を変え、形を変えながら神に敵対する力が苦しみの中で真の救いを求めている人々を惑わしている。しかし聖書を通して語り掛ける真の神が救いを求めて神ご自身のもとに来なさいと語っておられる。先にこの救いを知った人々は真の救い主を大胆に語り伝えよう。
2021/12/17(金) 担当 高谷清師 詩 65:6-9 賛美 新聖歌 201
詩人は「わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。」と詠う。「恐るべき御業」(新改訳改訂第3版では「恐ろしい事柄」)について鍋谷尭爾師は
「「恐ろしい事柄」は、単なる恐ろしい事柄でなく、神のなさった不思議な事柄という意味です。それは、出エジプトからカナンの地へイスラエルの民を導かれたこと(出エジプト34:10-11・Ⅰサムエル7:23)だけでなく、世界のすべてを今日も支え、守っておられる神のみわざを指しています。」(『詩篇を味わうⅠ』P212いのちのことば社 2006)
と記しておられる。天地を創造し、支配し、維持しておられる主、罪深い我らに罪の赦しを宣言し、御許に引き寄せてくだる神に、その恵みを知った者は皆、依り頼む。
2021/12/18(土) 担当 高谷清師 マル9:14-29 賛美 聖歌 265
霊に取りつかれた息子を持つ父親が癒しを求めてその子を連れてイエスのもとにやって来た。彼はイエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と願った。これに対してイエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われた。自らの不信仰を悟った父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んだ。イエスがこの子に取りついている霊をお叱りになると霊はこの子から出て行き、子は癒された。この父親の姿は私たちの姿である。私たちは弱さを持っている。平常時は信仰をもって生きていると思っていても一旦危機に遭遇すると心は信仰と不信仰の間を彷徨する。そのような時でもイエスは私たちの弱い信仰を確立し、その祈りを受け入れてくださる。イエスのもとに行くこと自体が信仰である。信じることが出来ない時には「信じさせてください」と祈ろう。神はその祈りを聞いてくださる。
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