≪デボーションの友≫2023/3/6-11

2023/3/6(月) 担当 高谷清師 マル 14:32-42  賛美 聖歌(総)25 聖歌 85

 裏切る者ユダが去った後、最後の晩餐を終えたイエスと弟子たちは祈りの場であるゲツセマネの園に向った。そこに到着するとイエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴って更に進まれた。そこでイエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と。私たちが知らされている信仰の勇者たちは迫害を受けた時にも喜びをもってそれに耐え、死に赴いたのである。それらのことから考えてここに記されているイエスは違和感を与えるかもしれない。しかしここには人となられた神の御子、人であり、神であられるお方の、全ての人の罪を負って十字架に架かり、全ての罪びとの贖罪を成し遂げる使命を負われたお方の苦しみと悲しみがある。この箇所について竹森満佐一師は

「主イエスは、ただ、命が終ることを怖れて、悩みはじめておられるのではなくて、罪人の死、神の前に罪を犯した者、したがって、その罪の審きを免れることのできない人間の死について、悩みはじめられたのであります。」『わが主よ、わが神よP217-218』教文館2016)

と語っておられる。マルコはイエスが死に臨んで「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれ、それは「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」と記している。パウロは「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ 6:23a)と語っている。クリスチャンと自称している人が罪を指摘されると「お前だって罪があるじゃないか。なぜ他人の罪をあげつらうのか。私はイエスを信じているからその罪は赦されているのだ」という人がある。ある師は「そのようなことを言う人は罪が分かっていない人である」と言われたが、真実である。罪の恐ろしさを誰よりも知っておられた主イエスこそ、最も罪を恐れられたのである。罪の赦しを成し遂げてくださった主イエスにしっかりと結びつき、隠された罪を示された時は謙虚に悔い改め、赦しの恵みの内を歩もう。

2023/3/7(火)担当 ラウジー満世師 創世記31:17-30 賛美 聖歌(総)444 聖歌442

 二人の妻と共にラバンのもとから逃げたヤコブをラバンが追跡する。神はラバンに夢で現れてヤコブを一切非難しないように警告された。それにもかかわらず彼はヤコブを非難する。ラバン自身の言葉ではヤコブの神が夢に現れて語られたことを認めているが、実際には神の言葉を理解して覚えているけれどもやはりヤコブを責めている。では、神がラバンに語られたことは神に選ばれていない彼には何の力も持たなかったのであろうか。決してそうではない。31:42のヤコブの言葉から、アブラハムとイサクの神がヤコブの味方であり、ヤコブのために働いてくださったからこそヤコブは祝福されてラバンのもとを去ることが出来たとはっきりとわかる。

 ラバンの夢に神があらわれて警告を与えられたことを、ヤコブはラバンから告げられるまで知らなかった。信じる者に必要な時には、神はその人の知らないところでも働いて守ってくださる。主は信じる者の味方である。苦難の時にもこのことを覚え続けよう。

2023/3/8(水) 担当 高谷清師 マル 14:32-42 賛美 聖歌(総)276 聖歌 295

 そのような恐れを抱いて主イエスは父なる神のみ前にひざまずいて祈られる「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と。父なる神から課された厳しい使命の故に恐れの中に在っても主は「アッバ、父よ」と呼びかけられる。これは父なる神に対する全き信頼に基づく呼びかけである。続いて主は「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られる。これは肉をまとわれた人間としての祈りである。続いて主は「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られる。ヨハネの福音書において主は「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハ 18:11)と語っておられる。フィリピの信徒への手紙においてパウロは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ  2:8)と語り、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリ  4:6-)と語っている。神に対する全き信頼に立って求めているものを神に打ち明ける祈りを神は聞いてくださる。「神が聞いてくださる」ということは祈った通りになると言うのではない。神は私たちの思いを越えてはるかに良きことを為してくださるのである。

2023/3/9(木)担当 ラウジー満世師 創世記31:17-42 賛美 聖歌(総)538 聖歌520

 ヤコブの逃亡の際のラバンとの対決の背後にはアブラハムとイサクの神が働かれ、同時にラバンの守り神のことも関わっている。ラバンの守り神とは、家の神々であり、加護と祝福を与えると考えられていたものであった。しかしこれには全く力がない。対照的に、ヤコブの神は敵対するラバンの夢にも現れて直接警告し、ヤコブを祝福して多くの家畜を与えて豊かにして、故郷である神の導きの地へと連れ帰る力ある神である。

 この出来事のくだりを読む中で、実際に真の力あるヤコブの神と人の手でつくった木でできた像にすぎない偶像(イザヤ書46:1-2)の無力さが明確にされている。天地を造られ、アブラハムを呼び出し、ヤコブを導き、今も聖書を通してご自身を顕される真の神こそが力ある力ある真の神である。この神から目を離すことなく、信じ続けよう。

2023/3/10(金) 担当 高谷清師 マル 14:32-42 賛美 聖歌(総)626 聖歌 588

 イエスが祈りを終えて戻って来られると弟子たちは眠っていた。これを見られた主イエスは「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と語っておられる。この箇所について徳善義和師は

「眠気に負けて眠り込まずにはいられない弟子たちに向けて、悪に対するイエスの究極の、終末論的勝利と、それに支えられて中間時を生きる弟子たちの歩みとが先取りされて示されていると言わなくてはならないだろう。もちろん弟子たち自身はその時にはそれに気づくことなく、眠気への警告と問いただけだったであろう。しかし、これがこのように記録され、繰り返して読まれ、語られ、聴かれることによって、このことばの持つ大きな射程に眼を聞かれることになったに違いない。「恐れてもだえる」姿の下で、イエスはまた確かに、死と悪の力との戦いにおける勝利者として立っておられるのである。(中略)霊と肉との間に戦いがあり、霊が燃えていても、肉の弱さが勝ちを占めるという人間の弱さと破れの指摘である。(中略)肉の弱さに自力で対応するのではなく、ただひたすらにキリストにすがって、その究極の勝利にあずかる者となる、ということである。」(説教黙想アレテイアマルコによる福音書P438日本キリスト教団出版局2010)

と述べておられる。主はヨハネによる福音書においては「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16:33)と語っておられる。主を信じる信仰によって最終的な救いに与っているとはいえ、長い地上の旅路においては疲れを覚え、挫折しそうになるのは常にあることである。そのような試練に自力で勝利することは困難である。常に主により頼み御力によって勝利させていただこう。

2023/3/11(土) 担当 高谷清師 マル14:32-42 賛美 聖歌(総)442 聖歌 440

 イエスが祈り終えて三度目に戻って来られると弟子たちは眠っていた。イエスは「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と言われた。この箇所について賀来周一師は「受難予告の成就」という表題を掲げ

「「時が来た。見よ、人の子は罪人の手に渡されるのだ」とは、繰返し弟子たちに告げられた受難予告の成就である。この「時」はまた、三五節の「この時」と同じである。イエスは、この「時」を「過ぎ去らせてくださる」ように祈ったのであった。しかし、いまや「この時」が過ぎ去ることなく、到来したのである。けれどもその「時」の現実を「見る」ことが要請される。「見よ」とは、たんに目を覚ましていることにとどまらない。「この時」をメシアであるイエスが迎えている出来事をまざまざと確認せよ、との命令でもあった。「見よ」につづく、「人の子は・・・・・」という言葉は、矛盾とも見える仕方で、当局者の手に引き渡されるこのイエスが、まさしく苦難の僕として旧約の昔より語り継がれてきたメシアであって、やがて起こる十字架の死によって、その使命を成就する方であることを明らかにする。「立て、さあ行こう」とは、敢えて苦難を引き受け、十字架へと自ら向かうイエスの姿を描き出し、そこにこそメシアの救いのわざのクライマックスがあることを強く印象づけているのである。二度目の「見よ」(四二節〉は、そこから目をそらすことを許さず、あらためてメシアの出来事のリアリティーに目をこらすことをさらに求めていると言えよう。」(説教者のための聖書講解No69P28日本基督教団出版局1989) と述べておられる。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られた主は神の御心に立ち毅然として罪人の救いの成就へと進みゆかれる。私たちも主が成し遂げてくださった救いの御業から片時も目を離すことなく進もう。