≪デボーションの友≫2023/6/26-7/1

2023/6/26(月) 担当 高谷清師 ルカ3:1-20  賛美 聖歌(総)415 聖歌 415

 ルカは1―2章においてテオフィロへの献呈の言葉から始めて洗礼者ヨハネの誕生の次第、イエスの誕生、イエスの幼少期について記してきた。3章からはイエスの公生涯について記していく。1―2章は主のご降誕の時期に合わせて読んでいくこととして、今は3章から読み進めていきたいと思う。新共同訳は3:1-20に「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という表題を掲げる。そしてヨハネの活動の時期について「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」と記す。小副川幸孝師は

「一人の歴史的存在をどのように理解して位間づけるかということは、それを理解する者の実存と密接に関係していることである。それゆえ、ここにも、ルカ自身がもっていたイエスについての深い理解と信仰が独自の形で現れている。(中略)初期のキリスト教会は、洗礼者ヨハネの存在を、まさに、神が人を救うために自らその道筋を整えられるということの象徴的な存在として位置づけてきた。洗礼者ヨハネの存在は、神による愛と救いの業の丁重な道筋を示すものなのである。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P87日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。神は罪を犯して死に定められているもの対して救い主を遣わすことを預言書をはじめ、あらゆる機会を通して語って来られた。そしていよいよ約束の救い主派遣の先駆けとしてバプテスマのヨハネを遣わされた。バプテスマのヨハネの勧めを真剣に受け止め、備えをすることが大切である。

2023/6/27(火)担当 ラウジー満世師 創世記42:1-5 賛美 聖歌総合版497 聖歌480

 42章ではヨセフの父とその家族の現状が伝えられる。エジプトの大飢饉の折、カナンの地でも飢饉が起こり、人々は困窮していた。エジプトには穀物が蓄えられているというニュースはこの地域にまで聞こえていた。ヨセフの兄たちはついに父ヤコブの言いつけに従ってエジプトへ出向き、食料を入手することとなった。兄たちは自分たちでは食糧確保のために決断ができなかった。10人の息子たちをエジプトへ送り出すヤコブも、末息子ベニヤミンだけはエジプトへ送り出すことが出来なかった。かつてのヨセフを失った経験が尾を引いていた。

 長い年月を経て描かれるヨセフの家族の姿を見ると、彼らはそれぞれにヨセフに関わる出来事に囚われ、罪の結果、不自由な人生を生きているようである。生活では困窮していないとしても、隠された罪があるところには本当の自由は存在しない。罪の中で苦しむ人々がその事実に気付き、神の赦しを受けることが出来るよう、祈ろう。

2023/6/28(水) 担当 高谷清師 ルカ3:1-6  賛美 聖歌(総)152 聖歌 197

 ルカは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」と記す。エレミヤ書は「主の言葉がわたしに臨んだ。」(エレ 1:4)と記し、ホセア書は「ホセアに臨んだ主の言葉。」(ホセ 1:1)と記し、ヨエル書は「ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉。」(ヨエ 1:1)と記している。「主の言葉が○○○に臨んだ(降った)」という表現は預言者の召しをあらわすのに用いられる表現である。そしてザカリアは「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」(ルカ1:76-77)と預言している。イエスは「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」(マタ  11:11)と語っておられる。バプテスマのヨハネはイエスの道を備える者として神から遣わされた偉大な預言者であった。この預言者の言葉に真摯に耳を傾けよう。

2023/6/29(木)担当 ラウジー満世師 創世記42:6-9 賛美 聖歌総合版540 聖歌522

 兄たちは弟ヨセフと分かれて以降、彼の状況は知らなかった。エジプトの司政者として目の前に居る男がヨセフであるなどとは全く気付かず、地面にひれ伏していた。ヨセフは一目で兄たちだと気づき、かつての夢―兄たちの束が自分の束の回りに集まってひれ伏すという夢(37:6-7)―を思い出した。この夢のために兄たちは彼をますます憎み、奴隷として売り飛ばした。長い年月を経て両者は対面している。兄たちは全く気付かぬ夢の成就であったが、ヨセフは鮮明に夢を思い起こして、今やエジプトの権力者として兄の前に立っている。

 聖書を通してヤコブの家族の出来事をすべて読んでいる私たちには神の言葉の確かさが分かる。しかしヤコブとヨセフの兄たちには明かされていないことがある。神の御業が進んでいることを人は常に全て明かされて伝えられているわけではない。人間としての限界ゆえに神の御業の全貌を知り得ない時でも神のご計画は確実に進められているということはしばしば起こっている。自分の小さな視界ですべてを判断するのではなく、神の壮大なご計画の中で生かされていることを知り、真実な神を信頼しよう。

2023/6/30(金) 担当 高谷清師 ルカ3:1-6 賛美 聖歌(総)205 聖歌 236

 ルカは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」と記す。モーセに率いられて奴隷の地エジプトを脱出した神の民は40年にわたって荒れ野を放浪しなければならなかった。荒れ野は水も食料もなく、灼熱の太陽に焼かれ、極寒に身の凍える地である。それは虚無と孤独と絶望の地である。そのような地で主はヨハネを召し、遣わされた。小副川幸孝師は

「神の救いの道への呼びかけが現実の苦難や絶望、孤独の中で始まるということである。かつて、S・キルケゴールが「人間の目が絶望の暗闇しか見えないところで、信仰は神を見る」(『野の百合、空の鳥』)と語ったように、神は人が困窮に陥った果てで、自ら救いの御手を伸ばされるのであり、信仰は、その神の救いの御手を見ることにほかならない。「荒れ野」は、まさに、人間的に見れば絶望の地以外の何ものでもないが、神の救いのメッセージの場所なのである。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P90日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。パウロは「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリ 12:9)と語っている。いかなる時にも主を見上げて歩もう。

2023/7/1(土) 担当 高谷清師 ルカ3:1-6  賛美 聖歌(総)424 聖歌 423

 主の召しを受けたヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。バプテスマのヨハネは神の救いが近づいている事への備えとして悔い改めを宣べ伝え、悔い改めた者に対してその証として水でバプテスマを施したのである。ヨハネ自身が「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(3:16)と語っているように、ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマとは別である。ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマである。「悔い改め」について小副川幸孝師は

「多くの場合、「悔い改め」は単なる人間的な反省を意味する。しかし、「悔い改め」が神の導きの下で行われるところで、それは「罪のゆるし」と一体となったものとなる。人はそこで初めて「裁き」ではなく「ゆるし」の中に置かれていくのである。そしてまた、「悔い改め」はそこで初めて真実の意味を獲得するものとなり、救いに至る道となるのである。」(説教黙想アレテイア ルカよる福音書1-11章P91-92日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。パウロは「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」(ロマ 2:4)と語っている。私たちは悔いることはできても悔い改めることはできない。それは神の憐れみの業である。信仰によってイエスに結ばれることによってのみ、成就される。