≪デボーションの友≫2023/7/3-8

2023/7/3(月) 担当 高谷清師 ルカ 3:7-14  賛美 聖歌(総)415 聖歌 415

 ヨハネのメッセージに応えて洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に対してヨハネが語った言葉が記されている。ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と語る。ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のであった。しかし群衆は洗礼を授けてもらおうとして出て来た、彼らが求めていたのは「悔い改めなき洗礼」であった。「悔い改めの洗礼」は悔い改めの承認であって「洗礼」が救いを与えるのではない。今日の教会においても、使徒信条をはじめとしてその教会の拠って立つ信仰告白が唱和され、主の祈りが献げられる。更に聖餐式、洗礼式等が執行される。それらに与ることによって救われる、何かの資格を得ると考える人々がいる。しかし、そうではない。それらの意味を深く受け止め、規範とし、自分を吟味し、悔い改め、イエスを信じることによって救いに与るのである。

2023/7/4(火)担当 ラウジー満世師 創世記42:6-22 賛美 聖歌総合版627 聖歌589

 食糧確保のためにエジプトの役人に対面した兄たちは思いもかけぬスパイの嫌疑に困惑した。兄たちは、自分たちが本当の兄弟であり、軍隊を組織しようなどという意図はないことを伝えたが、ヨセフは非常に厳しかった。エジプトで大きな権力を持つヨセフの即時の判断で兄たちは3日間も牢獄に監禁された。予期せぬ事態に陥った兄たちは牢獄の中で過去に犯した罪、弟ヨセフへの行為を思い起こしている。兄弟だけで共有されてきた、他の人々には知られていない罪のゆえに罰を受けていると考えた。そして苦しむ者の叫びに耳を貸さなかった罰として今の状況を理解した。悔い改めを明言しているわけではないが、少なくとも弟への仕打ちが罰せられるべき罪であることを認めている。

 人に対しては都合の悪いことを隠し通すことが出来るかもしれない。しかし神はすべてをご存じである。どのような罪であれ、やはり正面から向き合い、神の前に悔い改め、正しく扱っていただき、赦しをうけなければならない。これもまた神に従う人にとっての大切な信仰姿勢である。

2023/7/5(水) 担当 高谷清師 ルカ 3:7-14  賛美 聖歌(総)397 聖歌 397

 ヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。と語って神の怒りが差し迫っており、裁きの時が近いことを告げる。「神の怒り」について橋谷英徳師は

「ヨハネは「神の怒り」に触れていることを見逃すことはできない。けれども、この「神の怒り」ほど、見逃されているものはないかもしれない。神が怒られるのは、神らしくない、おかしいことだと言われることすらある。それは神を、私たち人間と同じように考えるからである。確かに、私たち人間の怒りはどのような怒りであっても身勝手なものでしかない。しかし、神の怒りはそうではない。神の怒りは私たちの怒りとは異なり、正しく真実である。そして、その怒りは、罪の故の怒りである。この「神の怒り」に対して、ヨハネが求めるのは「悔い改め」である。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P94日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。神は愛と慈しみに富んでおられるお方であるが、同時に、絶対に罪と妥協されることの無いお方である。罪人を愛する愛の故に、罪を取り除くために最愛の独り子を十字架に架からせるおかたである。パウロは「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。」(エフェ5:6)と語っている。

2023/7/6(木)担当 ラウジー満世師 創世記42:6-28 賛美 聖歌総合版460 聖歌707

 兄との出会いはヨセフにとっては辛いものであった。兄たちへの怒りと復讐心も強く感じたであろう。ヨセフの兄たちへの仕打ちは厳しかった。両者の会話を通してヨセフ自身の兄たちに対する怒りと、また弟に会いたい気持ちも強く感じられる。しかし兄たちの会話を聞いたヨセフの涙には気持ちの変化も現れている。最初の裁定とは異なり、ただ一人の兄だけをとどめて他の兄たちには食料を与え、兄たちが支払った銀も袋に入れて送り帰した。

 ヨセフの対応はなぜ変化したのだろうか。弟への情や家族全体への配慮もあっただろう。しかしヨセフが兄たちの会話を聞いて涙を流すほど心を動かされていることから、彼らが過去のヨセフへの仕打ちと現在の状況のつながりを認識したことが大きな理由だっただろう。兄たちの後悔と「罰」として現状を理解する背後にある神の働きへの認識によって真の和解へと進み始める。時間がかかったとしても罪を認め、向き合うことによって乗り越えていく信仰の歩みもまた神の御手の中で導かれている。

2023/7/7(金) 担当 高谷清師 ルカ 3:7-14 賛美 聖歌(総)502 聖歌 485

 ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と言った。「悔い改め」とはどういうものであり、どのようにして起こるのであろうか。それは罪を認識することから始まる。イザヤは神殿において神の栄光に触れた時自分の罪を認識して「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザ 6:5)と叫んだ。罪の認識が生じたのである。次に「悔い改め」とは方向転換である。ヨハネの二人の弟子はヨハネ、「歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言ったのを聞いた時、イエスに従った。「神の小羊」―神の恵みと憐れみを目にした時、方向転換が、悔い改めが起こった。神のみわざがなされたのである。「悔い改め」の今日的状況について橋谷英徳師は

「今日こそ、悔い改めから離れる風潮が存在する。しばしば私たちは、「あるがまま」ということをしばしば耳にする。教会においても、「そのままで、あるがままで人は救われる」ということが語られることがある。しかし、これは悪しき意味での心理学的な救いであり、聖書の福音はそういうことを語っていない。私たちには罪があり、人はそのままでは救われることはない。人間のそのまま、あるがままは、罪そのものでしかなく、そこに救いはない。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P94日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。私たちが救われる為には明確な立ち帰り、悔い改めが求められる。

2023/7/8(土) 担当 高谷清師 ルカ 3:7-14  賛美 聖歌(総)628 聖歌 590  「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と言うヨハネの言葉を聞いた人々は「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねはじめた。群集に対してヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。「下着を二枚持っている者」は裕福なものではない。しかしヨハネは「一枚も持たない者に分けてやれ」というのである。そこに神の愛が満ちる。徴税人に対しては「規定以上のものは取り立てるな」と言う。パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(Ⅰテモ 6:10)と語っている。また、兵士に対しては「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。「自分の給料で―自分に与えられたもので―満足せよ」これは現代社会に生きる者にとって重大な教えである。近代以降、人本主義のもと際限なき欲望のままに突っ走ってきた人類は今、重大な環境破壊を招き、存亡の瀬戸際に立たされているからである。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ姿―愛と感謝に満ちた社会」それは使徒言行録4章に見られる。それは主の十字架の赦しの恵みに与り、聖霊に満たされることによって実現したのである。