≪デボーションの友≫2023/9/4-9

2023/9/4(月) 担当 高谷清師 ルカ 4:38-39   賛美 聖歌(総)514 聖歌 496

 会堂で教えられたイエスは、会堂での集まりが終わると会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。この事についてK. H. レングストルフは

「当時人々は好んで客人を安息日の祝いの食事に招待し、殊に聖書の教師を招待したが、それによって何らかの奉仕のわざをすることができると思ったのである。」(NTD新約聖書註解(3)  ルカによる福音書 P147 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。シモンの家では、シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいた。人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がった。イエスが権威ある言葉を発せられると病は彼女を去った。イザヤは「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザ 55:11)と語っている。み言葉に信頼して歩もう。

2023/9/5(火)担当 ラウジー満世師 創世記46:28-30 賛美 聖歌総合版489 聖歌472

 ついにヤコブとヨセフが再会できた。ヤコブは一族の長であり、多くの子どもたちや財産に恵まれた。大きな責任を担いながら神と共に歩み、祝福された生涯であった。しかしヤコブの心の中には常に最愛の息子であったヨセフを失ったという大きな悲しみがあった。ヨセフの弟ベニヤミンが与えられていたのだが、それでも予期せぬ突然の事故によりヨセフを失ったことは大きな衝撃であり、ヨセフがおそらく獣に襲われて命を落とす原因を作った自分を責め続けてもいただろう。年老いてから仕方なくエジプトへ移住することになり気持ちは複雑であっただろう。しかし神はヤコブの悲しみと心の底にある願いをご存知であった。死んだと思っていたヨセフに会えたのだ。この二人の再会には言葉は必要なかった。首にすがって泣き続ける姿は積年の情を伝えるに十分である。

 神はヨセフを通して民全体を救うという大きなご計画の中で、父と子の嘆きをも知り、神の時にこの悲しみをぬぐう再会を与えられた。壮大な民全体の救いの中でも、神は個人の祈りを聞いてくださっている。

2023/9/6(水) 担当 高谷清師 ルカ 4:38-39  賛美 聖歌(総)274 聖歌 294

 ルカは癒していただいたシモンのしゅうとめについて「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」と記している。彼女はイエスから受けた恵みに対して応答したのである。

イエスはエルサレムへ上る途中、ある村に入られた。すると重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、癒しを乞うた。イエスが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたので、彼らはその言葉に従い祭司たちの所に向った。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した。イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(ルカ17:17-18)と言われた。

受けた恵みに対して感謝することは神に喜ばれる道である。

2023/9/7(木)担当 ラウジー満世師 創世記46:30-34 賛美 聖歌総合版532 聖歌514

 ヨセフはユダを前もってゴシェンへ送り、到着したヤコブの一族に不便がないように整えた。自らはファラオの元へ赴いて家族の到着を伝えた。イスラエルの民の到着はファラオの承認のもとで進められており、なんの心配もなかった。さらにこの移住者は牧羊者であり、大国エジプトを脅かす存在ではないこともこの対面を通して確認できた。

 ヨセフと兄たちの確執によりエジプトに売られて来た時から歴史の背後で神の導きがあった。神はこの民が将来カナンへと連れ戻されることも既に定められており(46:4)、移住者たちの生活がエジプトにも安心を与える配慮のもとで始められた。神の配慮は隅々に行き届いており、そのためにヨセフは知恵を用いて注意深くことを進める。知恵を正しく用いて主に従うことも大切である。神の知恵を求めよう。

2023/9/8(金) 担当 高谷清師 ルカ 4:40-41 賛美 聖歌(総)627 聖歌 589

 病人を癒し、悪霊に憑かれた人を解き放つイエスのうわさは、辺り一帯に広まっていた。イエスがシモンの家におられるのを知った人々は日が暮れる(安息日が終わる)と、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。ここでのいやしの方法はシモンのしゅうとめの場合とは異なっている。イエスのみわざは様々な方法であらわされる。

 また、悪霊について「悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。」と記されている。イエスが「神の子」であられることはこの段階ではマリア以外には告知されていなかった。しかし悪霊はイエスが神に子であることを知っていたのである。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。イエスの現臨されるところに神に支配、神の国が確立されている。イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタ 18:20)と語っておられる。主と共に歩もう。

2023/9/9(土) 担当 高谷清師 ルカ 4:42-44  賛美 聖歌(総)608 聖歌 574

 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられ、悪魔に勝利し、「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」(4:14)。人里離れた場所における神との交わり―密室の祈り―こそ、霊的力の源泉である。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかしイエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」とお答えになり、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

 地上におけるすべての使命を為し遂げ、天に帰って行かれるに際し主は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マル 16:15)と言う宣教の大命令を教会に与え、同時に「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(マル 16:15)と語って、教会が宣教の大命令を達成するための力―聖霊の注ぎ―を約束された。その約束は五旬節の日に成就され、教会は聖霊によって宣教を開始した。宣教は神に御業であり、聖霊によってのみ、達成される。聖霊に満たされて進もう。