2013/4/1-6

 

2013/4/1(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌295
 続いて著者は「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」と語る。この箇所を口語訳聖書は「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」と訳し、新改訳聖書は「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」と訳す。この箇所についてカルヴァンは「『喜びのゆえに』という語は,『喜びの代りに』と言っているにほぼひとしいし、喜びという語はあらゆる種類の快適さを含む」と語り「『幸福な、すべての良いものにみちた生を送ることはキリストにとって思いのままであったのに、彼は無惨な、屈辱にみちた死を喜んで耐え忍んだと』いっている」((カルヴァン新約聖書注解??P265))と語る。これについて主はご自分を捕えるためにやって来た群衆に打ちかかった者に「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26:52−54)と語っておられる。主は父なる神の御心に従い、御自分の喜びの代わりに十字架の死を耐え忍んで下さったのである。
 

 

2013/4/2(火)担当 高谷満世師 列王記上8:1-14 賛美 聖歌604
 いよいよ神殿が完成された。そしてまず民が集められ、祈りが捧げられる。これは第七の月の祭りの日であったが、これはモーセが律法を七年毎に朗読するように命じてから、448年目であった。ここには政治的指導者、祭司、レビ人、長老達と、皆が集まっており、神殿が完成したときに民が一つとなっていることがわかる。神の箱には律法の板が収められ、神殿には神の臨在をあらわす雲が満ち、また神の姿を覆い隠す密雲の中に主が居られる。
 神殿が完成し、奉献の祈りが献げられるときに、民がまず一体となった。そこに神がさまざまな方法で、ご自身がその場を選ばれたことを示された。このような一致の中で礼拝が献げられ、祈りが献げられた。まさにこの神殿は神と神の民にとって特別な場所であった。神の臨在の中で礼拝を献げるのである。今日の私たちはどの程度教会という場所を大切に扱っているだろうか。
 

 

13/4/3 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌172
 十字架の死を耐え忍んで下さった主は、神の玉座の右にお座りになった。パウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです(ロマ 1:3-4)」と述べ、さらに「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(ピリ 2:6-9)」と語る。御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた主に対し、父なる神ご自身が彼をよみがえらせ、高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのである。わたしたちがあらゆる苦難を耐えて主の御旨に従う時、神ご自身が私たちを高くしてくださるのである。
 

 

2013/4/4(木)担当 高谷満世師 列王記上8:15-21 賛美 聖歌545
 ソロモンは民に向かって語っている。このなかで「私がこの偉大な神殿建築の主導者だ」とは決して述べていない。ソロモンは神がダビデを選び、イスラエルの民を整え、そしてダビデについでソロモンが王となったときに、ご自身が神殿を建てるという約束を成就された。まさに主が約束を実現されたのである(8:20)。たしかにソロモンは主のご計画の中で神殿を建築するという役割を与えられ、それを果たした。しかし、すべてのことの背後にあって神殿建築を約束され、時に至って実現させてくださったのは神であった。そこには契約の箱が安置されたが、そこに入れられていたものは契約の板であった。ご自身がその名をおくために立てられた神殿は神を納めきれるものではなかった。この偉大な神殿すらも、神の足台に過ぎない。神はこの神殿に勝って偉大な方である。神の臨在は神殿の中だけに限定されるものではないこともまた、私たちは覚えておかなければならない。
 

 

2013/4/5(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌520
 著者は「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」と勧める。私たち人間は弱りやすい存在である。自分の罪を知り、絶望の中で主の十字架を示され、救いの恵みに与かり、喜びに満たされ、信仰生活を踏み出した者も、日々の生活の中でマンネリ化し、疲れを覚え、当初の歓喜と情熱を失いがちである。更に、試練に遭遇し、その試練の終りが見えないような時、気力を失い疲れ果ててしまうのである。そのような時、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた主イエスの事を考えるべきである。主が耐え忍んで下さった十字架の苦しみは筆舌を絶する、計り知ることのできないものであった。主はこの苦しみを私たちの救いのために忍んで下さったのである。わたしたちが試練に遭遇して心がくじけそうになる時、激しい試練をしのばれた主を見上げよう。
 

 

2013/4/6(土) 担当高谷由紀子師 マタイによる福音書 14:13-31 賛美 聖歌476
 バプテスマのヨハネの死を聞かれたイエスはひとり人里離れた所に退かれた。それを聞いた群衆は方々の町から歩いて後を追って来た。イエスはこの大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った時イエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われた。当惑した弟子たちが「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言うとイエスは「それをここに持って来なさい」と言い、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちがそのパンを群衆に与えたところ、男だけで五千人ほどいた群衆が皆食べて満腹し、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになったのである。  
 私たちの持っているものはわずかである。しかしそれを主の手に委ねる時、主はそれを用いて素晴らしい御業を行われる。自分の能力は小さく無価値なように思われても主が求められる時、主の手に委ねよう。主はそれを豊に祝福して御業を表してくださる。