2014/8/11-16
- 2014.08.11
- ディボーションの友
2014/8/11 (月) 担当 高谷清師 ?コリ9:15-18 賛美 新聖歌 373
主が、福音を宣べ伝える人たちは福音によって生活の資を得るようにと、指示されたことを明らかにしたパウロは、12節で自分にもこの権利があることを明らかにした後、キリストの福音を少しでも妨げてはならないとの配慮から、この権利を行使せず、すべてを耐え忍んでいることを明らかにした。重ねてパウロは「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と語る。この箇所について小畑進は「伝道者たる者が、伝道地から支給されることは全くの道理であることを一頁にわたって証明してきた使徒は、だからといって、何も自分が物欲し気な心をもって、諸君に泣訴せんとしているのではありません。それどころか、諸君のところでは、自給伝道こそわが望むところ、誇りとするところなのであって、「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです」と、止めを刺します(コリント人への手紙第一提唱P388いのちのことば社)」と述べている。献げものをもって宣教の働きに参加することは素晴らしいことである。しかし、献げる者は「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない(マタ6:3)」と語られた主のみ言葉をしっかりとわきまえていることが大切である。
2014/8/12(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上22:2-22:10 賛美 新聖歌272
ダビデの生涯は戦いに次ぐ戦いであった。彼は神殿を建てることはなかった。決してダビデ自身が神殿建築を拒否したのではないが、神が神殿建築者をソロモンとされたからであった。しかし、ダビデも神殿建築のためにできる限りのことを行った。神殿建築のためには外国から資材を集めなければならなかったが、王としての経験と実績のあるダビデにはその資材を取り寄せるための経験があり、諸国との関係において交渉力もあり、信頼も得ていた。それゆえに将来ソロモンが神殿を建てるために必要なものをできる限り整えたのである。ダビデは17章において預言者ナタンを通して神殿を建てることを禁じられた。そして22:8においてその理由はダビデが多くの血を流したからだと言われる。神を愛して神に従っていたダビデにとっては神殿建築を禁じられたことはつらいことであっただろう。しかし、ダビデは神に不満を述べるのではなく、神の御心に従い、神に選ばれたソロモンが将来神殿を建てるために必要な準備を整えた。
自分が神のためにこれをしたいと願うことが拒否されるときに私たちは困惑し、不平を持ち、時には神の御心よりも自分の願いを通したいと思う。しかし、自分の思いではなく神の御心に従う姿をダビデは示している。主の御心に従うことの大切さを教えられる。
2014/8/13 (水) 担当 高谷清師 ?コリ9:3-14 賛美 ほめよ28
パウロは「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」と述べる。伝道者とは、主によって福音宣教の働きに召された者である。召しに応答し伝道者職に身を献げた者が献身者である。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい(?テモ4:2)」と言われているように、主の召しは厳しく不変である。御手にすがり一つの山を乗り越えたかと思うと目前にはさらに高い山が聳え立っているというように、主に依り頼む以外に使命の達成は不可能である。主の助けによってみ言葉を宣べ伝えるのは当然の事であって、福音を告げ知らせないなら、不幸なのである。主は「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい(ルカ 17:10)」と教えておられる。人の前に宣教の業とその成果を自分のものとして誇る者があるなら、それは偽教師である。
2014/8/14(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上22:11-22:19 賛美 新聖歌38
主の神殿を建てる者として選ばれたソロモンは、戦争において多くの血を流すことがなく、また神によって安らぎを与えられ、イスラエルに平和を与える者であった(22:9)。今、このソロモンのために父であり王であるダビデが語っている。この言葉の中でダビデは何があってもソロモンが神殿建築を成功させるとは決して考えていない。主が共にいてくださるからこそ、このことが可能であるとダビデは知っていた(22:11)。何をするにも主が力を与え、知恵を与えてくださるからこそ実現可能なのである。そのためにソロモンがなすべきことは主の掟と法を心に留めて、そして行うことであった。神のことばに聞き従うことであった。
かつてサウルは神のことばに完全に聞き従うことができず、自らの判断でささげものをささげたがゆえに神によって退けられた。神のことばを聞き、知り、そして行うこと、すなわち従うことが大切なのである。神のことばは私たちの歩みの中で決しておろそかにされてはならない。み言葉を知ること、そして従うことを今日も実行しよう。
2014/8/15(金) 担当 高谷清師 ?コリ9:3-14 賛美 新聖歌 388
パウロは「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」と語る。カルヴァンは『「進んでそれをする人」(自分からそうしている) というのは、ただ徳をたてることだけを目ざし、教会にとって有益であり、役に立つと思うことなら、何事でもすることをいとわず、よろこんで挺身する人のことと解する。また、反対に、かれが、心にもならず(強いられて)している人というのは、いぜんとして強制ずくでやらされることのように無理をしなくてはならない人、すなおに心から進んでしないために、行いに熱が入らない人のことである。だから、いつでも、何事をも誠心誠意する人なら、人に忘れられて働いただけの成果があがらないような事柄にも進んで身を挺することができる。このように、 パウロは、その行いを進んで実行したのであって、単におざなりの仕方で教えを伝えたのではない。教えを進め、ひろめて行くために、適当と思うことなら何一つないがしろにしなかったのである。だからこそ、かれは、熱烈に進んでつとめに没頭するため、その権利を放棄することをためらわなかったのであり、それがまさに、かれの「傑作〔を作り上げた満足感]となり、誇りとなったのである(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P212新教出版社)』と述べている。何事もただ徳をたてることだけを目ざし喜びをもって為すとき、深い満足感を得ることが出来る。
2014/8/16(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 15:1-6 新聖歌 206
羊飼いはいなくなった一匹の羊のために、崖を這い上がり山や谷を駆け巡って探しました。やっと見つけたとき、彼は見つけた羊を担いで帰ってきて友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言いました。
主イエスは「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである(ルカ19:10)」と言われました。また主は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(ルカ 10:10)」と語っておられます。これらの事から、主が魂の救いをいかに望んでおられるかがわかります。主の御心を自分の心として、日々福音を証しすることを励みましょう。”,,1178″
-
前の記事
2014/8/4-9 2014.08.04
-
次の記事
2014/8/18-23 2014.08.18