2014/9/8-13

2014/9/8 (月) 担当 高谷清師 ?コリ9:24-27 賛美 新聖歌 355
 この段落の結びとしてパウロは「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と述べる。この箇所についてカルヴァンは『使徒がここでこの語を用いたのは「あらあらしく・屈服せしめるように、あつかう」の意であると思う。パウロは、自分は感情を奔放にふるまわせることなく、かえってそれを抑えつけている、と言いたいのである。このことは,からだを訓練し、欲望を抑えて、からだをととのえ・いつも従順であるようにしておかなければ、果されないことである(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P219新教出版社)』と述べている。主に、特に選ばれた弟子、ペトロ・ヤコブ・ヨハネは、主が「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と命じられたにもかかわらず、ゲッセマネにおいて主が苦闘の祈りをしておられる間、眠ってしまったのである。これに対し主は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と語られた。私たちの肉体は弱い存在である。常に強い意志をもって服従させなければ、安逸に流れがちでる。小畑進は「自由を放縦とし、恵みを椴惰に変じてしまうコリント人らをして、自律・自戒せしめ、おのが足元を慎しましめる趣旨がみなぎっています(コリント人への手紙第一提唱P412いのちのことば社)」と述べている。今日の私たちも耳を傾けなければならない言葉である。

2014/9/9(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上28:1-8  賛美 新聖歌299
 ダビデは神殿建築の準備を整え、またここでイスラエルの指導者達からなる会衆を招集している。この時もまた、ダビデ自身は多くの血を流したがゆえに神殿建築を神から許可されなかったことを再度語っている。しかし、神はダビデの家を選んでおられる。そして確かにダビデの子の中からソロモンを選び、約束された王座を守り、神殿建築を実現させてくださる。この箇所で印象に残るのは28:7-8である。ダビデの王国の繁栄は無条件に与えられるものではない。人々は忠実であること、神に従うことが求められるのである。これはソロモン一人に対して言われているのではない。28:8で与えられた忠告はソロモン一人だけではなく、そこに集まってダビデの言葉を聞いている指導者すべてに言われたものである。神との関係に生きる者はすべてが無条件に保障されているのではなく、神に信頼し、服従することが求められている。
 今を生きるクリスチャンにも神に従うこと、それぞれの場において神のことばに従い、生きていくという意味での「献身」が求められている。この場で語っている献身とは牧師になるという決心だけを指すのではなく、一人一人が置かれた場において誠実に生活しつつ、神のことばに忠実に従う生き方である。

2014/9/10 (水) 担当 高谷清師 ?コリ10:1-5 賛美 新聖歌 344
 「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と述べたパウロは、イスラエルを引き合いにしながら、その危険について語る。エジプトで奴隷とされ、苦難の生活を強いられていた神の民イスラエルの叫びは神に届き、神はモーセを立て、イスラエルをエジプトから導き出された。昼は雲の柱、夜は火の柱をもってその旅路を導き、背後に敵が迫った時には海を分けて乾いた地とし、イスラエルを渡らせられた。荒野にあって収穫不可能なときには天からの食物マナをもって養い、渇いた時には岩から水を出して飲ませてくださった。それにかかわらず、イスラエルは神のことばとモーセに反抗し、偶像礼拝を行った。そのため、モーセに率いられてエジプトを出た成人60万余りの人々のうち、約束の地に入ったのはたったの2人であったと記されている。このことは、どんなに大きな恵みにあずかっていたとしても、罪の生活を続けるなら、失格者となることを警告している。誠実に御言葉に従おう。

2014/9/11(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上28:9-20  賛美 新聖歌 238   
 28:20を読むと、かつてモーセがヨシュアにイスラエルを導くという役目を託すときの言葉が思い出される。事実、28章全体におけるダビデ像はモーセのイメージと重なる。民をここまで導いてきたが、最終的に恵みの土地に入ることを得なかったモーセの姿と、神殿建築のためにあらゆる準備を整えたが自分ではその建築された神殿を見ることがなかったダビデの姿である。ダビデはモーセ同様に神に従うことの厳しさと、同時に、神は従うことを厳しく求めておられることも知っていた。それは神に従おうとする人に対して、これからの道のりを思うときに恐れを起こさせるものであった。それを知ってダビデは、かつてモーセがヨシュアを励ましたように、雄々しくあれ、恐れるな、と語る。なぜそのように言えるのだろうか。それは困難なことを求められる神ご自身がソロモンと共に歩まれるからである(28:20)。そしてソロモンが一人ですべてを担うことなく、その働きを支える人々をすでに備えておられるからである(28:21)。
 神は私たちにも困難な要求をなさる。従いなさい、と。しかし恐れなくてもよい。神が共にいて助け、また必要な助け人を備えていてくださる。

2014/9/12(金) 担当 高谷清師 ?コリ10:6  賛美 新聖歌 38
 パウロは「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。」と記している。コリント人はキリストの贖いの恵みによって救いにあずかり、バプテスマと聖餐の恵みにあずかった。彼らは知識と自由を持っていると主張し、放縦な生活を送り、節制をないがしろにした。貧しい人々、弱い人々を軽んじ、愛を棄てた。これは今日の教会状況にもあてはまる。聖霊の御業を横取りして自分の栄光とし、心理学、経営学を駆使して大組織を構築しその上に君臨しょうとする類である。主は弟子たちを遣わすにあたって「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタ10: 16)」と教えられた。私たちは聖霊に満たされ、御霊の知恵をもって物事を識別し、悪をむさぼることのないようにしょう。

2014/9/13(土) 担当 高谷由紀子師 フィレモン10-11  新聖歌390
 オネシモはフィレモンのもとから逃亡した奴隷でした。パウロが「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でした」と述べているのはこのためです。このオネシモがローマで監禁されていたパウロと出会い、福音を受け入れて主を信じる者となりました。その結果、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となったのです。イエス様のたとえ話を見るとき、失われた銀貨は役に立たないものです。見つけられた時はじめて喜ばれるもの、役に立つものとなるのです。人は罪によって失われた者となっています。福音を信じる信仰によって新しく生まれたとき、はじめて神と人に役立つものになるのです。常に信仰をもって歩みましょう。”,,1140″