2016/7/4-9

2016/7/4(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:1-6  賛美 新聖歌 363A
 ぺトロは「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」と述べる。ここに語られた「死んだ者」とは、キリストを信じて死んでいった人々である。教会は主イエスを信じた人々は永遠の命を与えられる」と述べ伝える。しかし現実においてはクリスチャンもクリスチャンでない人々と同じように死ぬ。パウロが「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ロマ 5:12)と述べているように、アダムの罪によって入り込んだ死はすべての人々を支配しているのである。人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだのである。そのように死に定められた人間に福音が告げ知らされたのは霊において生きるようになるためなのである。罪の無い神の御子も人類の罪をその身に負われたとき十字架上で死なれたのである。パウロが「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ 1:3-4)と述べているように、神はこの御子を復活させ、救い主としてお立てになったのである。キリストを信じることにより、キリストの復活に与り、永遠の命の恵みに与る、即ち霊において生きるようになるのである。

2016/7/5(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書42:5-9 賛美 新聖歌21
 しもべを呼び出して正義を行うをいう言葉を信じることができるかどうかは、それは誰が宣言されたのかによる。イザヤ書によるとそれは天と地を創造された主の言葉である。世界を創造し、人に命と霊を与えられた方はイスラエルと共に歩んでこられた神であった。人に命を与えられた神は世界の創造を終えると同時に消滅してしまうような神ではない。その後も働き続け、再びイスラエルに語りかけてイスラエルを選び、捕らわれている状態から解放される方である。天地が主の栄光を語り告げるために造られたのと同様に、捕らわれのイスラエルは神の栄光を示すための諸国の光とされる。始めからイスラエルと共に歩まれた方は決して彼らを離れることもなく、沈黙したり消滅したりする方でもなく、再び力を示し民を救い出される。
 神がこの世界を造られたことを私たちは知り、信じている。その創造者は今も日々私たちに関わり、私たちを選び出し、世の光として神の栄光を表す者としてくださる。

2016/7/6 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4: 7-11 賛美 新聖歌 148
 4:7においてぺトロは「万物の終わりが迫っています。」と語る。終末が切迫していることについては、パウロが「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ロマ 13:12)と述べており、ヨハネが「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」(?ヨハ2:18)と述べていることからも、当時の教会の認識であったことがわかる。一方でぺトロが『まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」』(?ペテ3:3-4)述べているように、それを疑う人々もいたのである。しかしぺトロは「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(?ペテ 3:8)と述べている。主のご計画の中で万物の終わりは刻々と迫っており、それは今も変わらないのである。それ故、私たちは常に万物の終わりを迎える備えのある歩みをしよう。

2016/7/7(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書42:10-13 賛美 新聖歌165
 創造者である神が正義を行われるという言葉を聞き、国々は賛美によって応答するように励まされる。「新しい歌を主に向って歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。(42:10)」との呼びかけは礼拝への招きである。その礼拝に招かれているのは僕イスラエルだけではなく、周辺諸国、島々と砂漠の国々まで含まれている。主の栄光はイスラエルだけに示されるのではなく、世界中に告げ知らされる。主が戦士として立ち上がられるとき、その鬨の声を聞くのは全世界である。この新たなる創造と解放に向かうときに促される賛美は13節に記されているが、これは出エジプト記15章にある、イスラルが葦の海を渡り終えた時の賛美の声に重なる。
 主がイスラエルの内に始められる業は全世界に告げられるものであり、かつてイスラルが体験したような解放の業であり、新しい出エジプト、新しい救いの体験である。捕らわれて将来の希望を失っていた民の中にこの業を行われる神が今私たちと共におられる。

2016/7/8(金) 担当 高谷清師  詩編22:7−12  賛美 新聖歌 373
 苦難の中に在って訴えるダビデに対して沈黙を守られる神に対しても、ダビデは神が先祖に対してあらわされた恵みの御業を数え、信仰を言い表した。そしてダビデは「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。」と訴える。そのようなダビデに対して人々は「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」と言う。イザヤは主について「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザ 53:3-4)と述べている。祭司長たちや律法学者たちも長老たちと一緒になって十字架上のイエスに「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタ 27:42-43)と言って侮辱し、一緒に十字架につけられた強盗たちも同調した。このような中で神のご計画は成就し、栄光があらわされたのである。パウロは「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(フィリ2: 17)と述べている。神のご計画が成ること、神の栄光が顕されることこそ自らの喜びとする信仰に歩みたい。

2016/7/9(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 18:9-14  賛美 新聖歌 196
 ファリサイ派の人は、他の人々と比較して自分たちはより正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下していました。祈るために神殿に上った時、偶然徴税人と一緒になりました。ファリサイ人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。一方、神のみ前に誇るべき何物も持たない徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。この光景について主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。
 人は神の光に照らされない限り、自分の本当の姿を見ることが出来ないのです。ファリサイ人の祈りは自画自賛の独り言です。徴税人の祈りは真実と謙遜をもって神に近づく祈りです。神に受け入れられるのは徴税人のような祈りです。”,,1140″