2020/1/20-25

2020/1/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ16:25-28 賛美 新聖歌 284

 イエスは「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」と語られる。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィ 2:6-8)と、述べている。イエスか父なる神の御心に従い、天の栄光を棄てて人となり、十字架に架かり、贖いの御業を成し遂げ、死から蘇り、天に昇り、父なる神の右の座に着かれた。御子の願いにより、父なる神は聖霊を遣わしてくださる。このお方についてパウロは「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ロマ 8:16-17)と述べている。子とされた者は父に求め、父はそれを聞き入れてくださるのである。信仰に立ち、確信をもって祈り求めよう。

 

2020/1/21(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:12  賛美 新聖歌374

 アモスはここで救いを宣言しているのだろうか。表面上、そのように私たちは理解するかもしれない。しかし注意深く読むならば何か違和感を持つ。実はアモスは人々が簡単に救い出されるという誤った希望を見出そうとするときに、この皮肉な表現を用いてそれを完全に否定しているのである。出エジプト記22:12によると、隣人の家畜を預かっているときに家畜が野獣にかみ殺されてしまった場合は、預かっていた人に償いの責任はない。野獣にかみ殺された証拠を持って行けば償わなくてもよいとされる。家畜の死を証明するのはかみ殺された家畜の一部である。羊飼いが野獣の口から家畜の死の証拠を取り戻すように、イスラエルの人々も確かに死を迎えた証拠だけを取り戻されるという。すなわち、民が絶体絶命の状況において、なお罪を認めず、裁きを受け入れないときに、アモスはこれほどの皮肉を用いてその幻想を打ち破ろうとする。

 神が人の罪を裁こうとなさるとき、人は心から罪を認めて悔い改めなければ安易な赦しと救いは与えられない。偽りの希望は人を真の悔い改めと救いから引き離してしまう。神の前に生きる自分の姿を知り、神の赦しと憐みを求めつつ主に従おう。

 

2020/1/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ16:25-28 賛美 聖歌 136

 イエスは「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」と語られる。ぺトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(?ペト1:8)と述べている。肉の目をもってイエスを見ることが出来たのはごく限られた人々であった。そして肉の目をもってイエスを見た人々も本当のイエスを見ることはできなかった。イエスと同時代を生き教会を迫害したパウロも地上を歩まれたイエスを見たことはあったであろう。しかし、本当にイエスと出会ったのはダマスコ郊外において、霊によってであった。イエスとの真実の出会いは聖霊に導かれ、霊によってである。イエスとの聖霊による真実の出会いは私たちの内に神の愛を満たし、真実の喜びを満たし、感謝と讃美に溢れさせるのである。

 

2020/1/23(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:13-15  賛美 新聖歌325

 救いの幻想を追い続ける民に対して神が語れと命じられているのは救いの保証ではなく警告であった。神がこの民に下されるのは罰である。人々が神に近づくための礼拝の場である祭壇が壊される。さらに豪華な大邸宅も打ち壊される。自らの罪を棚に上げて、神の「偉大さ」と「いつくしみ」を自分の守りのために表されると自己中心に考えていた人々に対しては赦しと救いの宣言ではなく、破壊と滅びの宣言がまずなされなければならない。

 神はこの民をもはや愛しておられないからこのような厳しい警告をなさるのだろうか。そうではない。神は選ばれた者として歩むべき民に、神を畏れ、敬い、従う姿勢を思い起こさせるためにこのように言われる。この厳しさの中にこそ神の本当の愛と導きがある。神に罪を赦され、恵みの中に生かされているからこそ自分自身の心と歩みを主の御心にかなうものとして歩もう。それをなさせてくださる聖霊の導きにすがりつつ。

 

2020/1/24(金) 担当 高谷清師 詩 50:22 賛美 新聖歌 178

 「神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。」と言われる。人が罪を犯しても、その罪に対して直ちに裁きが臨むことはまれである。それを良いことに人は自分の罪を過小評価するようになる。更に進んで、「聖書には罪と指摘されているが、神はもはや罪として裁かれないのだ」と考え、罪を犯すことに抵抗を感じなくなってしまう。しかし聖書は厳然として罪を指摘する。また、神を信じない人々、聖書を認めない人々に対しても「良心」の証をもって罪を明らかにされる。御言葉により、良心によって明らかになった罪に対して直ちに裁きが臨まないことについてぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(?ペテ  3: 9)と述べている。さらにパウロは「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ 3: 25)と述べ、更に「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」(ロマ 2: 4)と述べている。神の憐れみの内で罪を悔い改め、恵みに生きよう。

 

2020/1/25(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 15:1-5 賛美 新聖歌 273

 主はこの箇所において主と私たちの関係について教えておられる。主はぶどうの木、そして私たちはその枝であると言われている。枝は幹につながっていなければ実を結ぶことが出来ない。キリストの言葉は単なる教えではない。ヨハネはこの福音書の初めの部分において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ 1:4)と述べている。実に、キリストは私たちの命であり、キリストから離れる事は命を失うことである。信仰によってしっかりとキリストにつながっていよう。