2020/2/3-8

 2020/2/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 新聖歌 355

 イエスは「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」と語られる。御国において無限の存在であられたイエスは父なる神のご計画と御心に従い、人となり、時間と空間の制約に入られた。その間、常に父なる神との深い交わりの中に、父なる神の心をご自分の心として歩まれた。今、目前に迫った十字架によって父なる神より託された全ての使命を成し遂げ、御国に帰還しょうとされている。それ故、弟子たちが散らされて自分の家に帰ってしまうとしても、父なる神は常にイエスと共に居てくださるのである。甦られたイエスは弟子たちにご自身を顕し「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ 28:20b)と語られる。この言葉は聖霊降臨によって成就された。今日、すべての世人が自分を捨て去るとしても、イエスを信じる者は孤独ではない。聖霊なる神が常に共に居てくださるからである。聖霊に信頼して信仰の歩みを全うしょう。
 
2020/2/4(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:4-5  賛美 新聖歌263
 ベテルやギルガルにイスラエル各地から集まった大勢の礼拝をささげる人たちに向かって驚くべき言葉が語られる。ここに集まっているのは神を信じる、宗教的な、信心深い人たちであった。その人々に、律法に定められたいけにえをささげて神を礼拝したことに応えて神の赦しと恵みを宣言するのではなく、まさに正当な礼拝をささげている人々に対して「罪を重ねよ」(4:4)と述べる。規定に従って神の前に出ようとする人々にこれ以上正しい礼拝をささげる余地があるだろうかと驚くのは、今日み言葉を読む者だけではなく、当時礼拝をささげた人々も同じであっただろう。しかしアモスは確信をもって、このような礼拝は人々が好むことであって、神の喜ばれることではないと言う。
 アモスは形骸化した礼拝と、この行為によって神を意のままに操ろうとする人々の信仰姿勢を批判した。神に対して自己主張し、携えてきたいけにえによって神を味方につけて自分の必要を神に満たさせようとする心をずばりと指摘している。真の礼拝とは神を畏れて神に近づくことである。
 

2020/2/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 新聖歌 252

 イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と語られる。ヘブライ人への手紙の記者は「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:15)と述べている。神の御子イエスは人となり、肉なる者と共に、とりわけ社会の底辺で苦しむ人々と共に歩み、人の弱さと苦しみをつぶさに体験してくださった。そして天に帰り、父なる神の右の座に着かれることによって全き勝利者となられたのである。このイエスが聖霊によって信じる者と共に居てくださり、信じる者の戦いを共に戦ってくださるのである。それ故、キリスト者は世における苦難が如何に熾烈を極める時にも、キリストにあって平和に入れられるのである。いかなる時にも平和を与えてくださるお方に、常に感謝しょう。
 
2020/2/6(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:4-5  賛美 新聖歌166
 引き続きこの箇所を読む。アモスは、聖所に集まって神を礼拝しようとしている人々の信仰を全く受け入れず、逆に彼らの自己中心な思いを指摘して明るみに出した。当時の律法に則った礼拝が神の喜ばれることではないとしたら、何を神は求めておられるのだろうか。その答えは旧約聖書で何度か語られている。ホセア書6:6には「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とあり、詩篇51:18-19には「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と記されている。
 神に近づくということは自分の心を吟味し、神との間を隔てる罪があればそれを告白して悔い改め、神の愛による赦しを求めることである。また、神を心から愛して、自分の主権を神に押し付けるのではなく、神の主権を受け入れ神を自らの主とすることである。神を愛する者として神に近づこう。
 
2020/2/7(金) 担当 高谷清師 詩 51:1-2 賛美 新聖歌 236
 「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」にダビデが詠んだ詩篇であるとされている。ダビデとウリヤの妻バト・シェバとの事件及び関連する出来事についてはサムエル記下11章に記されている。この件について神は預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ダビデの罪を厳しく指摘された。本詩編は罪を指摘されたダビデの悔い改めの祈りである。日本の大手企業は様々な部品を中小企業に発注し、それらを組み立てて一つの製品を作っている業態が多い。受注した企業は発注社から与えられた資料に基づいて製品を制作するのであるが、そこには何パーセントかの確率で誤りが生じる。誤りの指摘を受けた受注社は対応するのである。発注社の担当者が「誤りは誰にでも発生するものであり、それ自体を問題にするのではない。問題は誤りが発生した時受注社が如何に対応するかである」と話しておられるのを耳にしたことがある。神の前に罪を犯さないことは大切なことであるが、罪を犯した時、如何に対応するか、「そんなことは誰でもしいている、自分のやったことは国家の法に触れていない、あの人はもっとひどいことをしている」と開き直るのか、あるいは悲しみをもって受け入れ、悔い改めるのかによって神との関係は大きく変わる。神に喜ばれる対応をする者でありたい。
 

2020/2/8(土) 担当 高谷清師 ロマ 3:23-26 賛美 聖歌 447

 先日元女優の沢尻エリカ被告が合成麻薬のMDMAなどを所持していた罪に問われている事件の初公判が開かれました。その裁判の中で「弁護士が今後の生活について尋ねる中で女優への復帰について触れると、沢尻被告は『復帰については考えていません。影響力のある立場の人間としてあまりに身勝手な行為により、多くの方を裏切り、傷つけました。その代償はあまりに大きく、復帰を語る資格は無いと思っています』と述べました。」と報じられている。人が国家の法律を破り、罪を犯すことは自分を社会的に葬り去る重大な結果を招くのである。一国家の法を破ることがこのような結果を招くのであれば、国家を超えて天地を統治なさる神の法を犯すことは更に重大な結果を招くのである。パウロはこの箇所で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と述べ、更に「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ 6: 23)と述べている。神はそのような罪ある人間に救いの道を備えてくださっているのである。神の前におけるすべての罪人が神を知り、罪の赦しに、救いの恵みに与ることが出来るように祈り、御言葉を伝えていこう。