2022/3/7-12
- 2022.03.07
- ディボーションの友
2022/3/7(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 3:14-16 賛美 新聖歌 144
この箇所において教会は「生ける神の教会」と呼ばれ、「真理の柱であり土台である」と言われている。この箇所についてカルヴァンは
「教会は、神の栄光を内に宿し、そして、我々のための救いをも宿す。教会は、永遠の真理が宿る家である。この聖なる建物以上に、偉大で優れたものなど、ほかにあるだろうか?異教の哲学者たちも、それぞれの信奉者たちによって、大いに尊敬を受けている。しかし、彼らすべてを一つにしても、天の知恵が宿る教会の尊厳には、太万打ちできまい。真にほめられるべきは、天の知恵だけである。この知恵こそが、光であり、真理であり、命をもたらす御教えであり、天への道であり、そして神の御国そのものである」(カルヴァン・新約聖書註解??テモテ・テトス・フイレモン書P78−79新教出版社2021))
と記している。教会は地上における神の国――神の支配が完全に及ぶところ、神の御心が具現するところ――である。
2022/3/8(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:6-10 賛美 新聖歌396
ここからしばらくマラキ書は祭司に対する厳しい罪の指摘と警告を語る。祭司たちに対してこれほど厳しく語られる理由は彼らと神との間にある親しい関係の故である。まず6節の冒頭において父と子の関係を比喩として用いる。これほど親しい関係に祭司たちは置かれ、そして神への礼拝を導くという特別な働きを与えられている。また両者の関係は主人と僕という比喩としても語られる。この関係において親しさだけではなく、祭司が神を尊敬し、畏れることが必要であることを明確に語っている。絶え間なく注がれる神の愛への正しい応答は神への尊敬と畏れをもって御前に出ることである。
私たちも神の愛の中に生かされ、神との親しい関係と交わりの中に恵みを得ている。神を父のように慕い、同時に神への適切な畏れをもって御前に近づき、礼拝をささげているだろうか。親しく交わることの恵みに目を向けすぎて主なる神を敬うことがおろそかにならぬよう、改めて自らを省みつつ主に喜ばれる者であり続けよう。
2022/3/9(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 3:14-16 新賛美 聖歌 273
使徒言行録は五旬祭の日に、使徒たちが一つになって集まっているところに聖霊が注がれた、聖霊降臨の出来事を伝えている。これは神が預言者ヨエルを通して預言され、復活されたイエスが昇天を前にして弟子たちに約束されたものであった。聖霊降臨の出来事とそれによって聖霊に満たされた使徒たちの宣教によって多くの人々がイエスを信じた。教会史家はこの出来事を教会誕生の時としている。土で形づくられたアダムがその鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となったように、聖霊の注ぎによって誕生した教会はそのうちに豊かな命を宿した、生ける存在である。その命は地につく、死に行く命ではなく、天より注がれた永遠のいのちである。それ故、教会は必ず成長し、勝利する。パウロが「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(?コリ6:3-10)と述べているとおりである。
2022/3/10(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書1:6-10 賛美 新聖歌390
神と祭司たちとの親しい関係について6節で述べた後、祭司たちがどのように神を軽んじたかが具体的に述べられる。祭司たちは神から責められることに心当たりもないようだが、神は彼らがささげている犠牲が彼らの都合の良い物であって、神の求められるものではないと語られる。しかし神が指摘されるのは汚れた犠牲をささげながらも彼らが「我々はどのようにしてあなたを汚しましたか」(1:7)と語り、心に咎めがないことである。訓練を受けた祭司が規定に合わない犠牲をささげていることを知らなかった訳ではないだろう。やむを得ずそのようなものをささげていたとしても、彼らの心の中には罪悪感もなければ神への畏れもなかった。
ここを読むときに、礼拝をささげる人々、神の前に進み出る人々の心の有り様について教えられる。今の時代にささげられている礼拝においてその形式はさまざまである。自由なところもあれば厳格なところもある。いずれにしても、礼拝をささげるときに神への畏れを持ち、心が神に向けられ、尊敬と謙遜をもってささげているだろうか。主の前に出るときに私たちの心を喜ばれる神へのふさわしい礼拝をささげることを今一度心に留めよう。
2022/3/11(金) 担当 高谷清師 詩 66:16-17 賛美 新聖歌 266
かつて苦難の中に在った時、神に祈り、御前に誓った。今、その祈りは聞き入れられ、苦難から解放された。神の御業に感謝し、誓いを果たすことを宣言した詩人は、信仰の仲間に対して「神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。」と語る。この箇所についてA. ヴァイザーは
「祈り手が自分の心の経験から汲みとって証しすることは――伝記的もしくは心理的興味を満足させるような人間「体験」の詳細を問題にしないで、決定的な神のわざが強調されているのは注意すべきである――このようにして、会衆の信仰に、新しい力と喜びを注ぎこむ生ける泉となる」『ATD旧約聖書註解詩篇中P165』1985)」
と述べている。
私たちが主から恵みを受けた時、それを集会において証しし、共に喜び、感謝することは集会全体の財産となる。その際パウロが「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェ 4:29)と述べていることに留意すべきである。
2022/3/12(土) 担当 高谷清師 ヤコブ4:13-17 賛美 新聖歌196
ヤコブはユダヤ人キリスト者に宛てた手紙で「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。」と書き送っている。しばしば○○祈祷会、××祈祷会という案内を受ける。そして「○○のために、××のために以下の通り計画いたしました。この計画を神が祝福してくださり、多くの実りが得られるようにお祈りください。」という案内を受ける。しかしヤコブは「実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。」と述べる。そして「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。」と言う。私たちの行動は先ず主の御前にひれ伏して御心を聞くことから始めることが大切である。
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