≪デボーションの友≫2023/5/29-6/3

2023/5/29(月) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:50-58  賛美 聖歌(総)201 聖歌 232

 パウロは「わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」と語る。イエスはマルコによる福音書12:18以下で、サドカイ人との議論の中サドカイ人の考えに反対し、それは聖書も神の力も全然知らないものだと言われた。H.-D. ヴエントラントは

「新しい天的な復活の身体を持つ生命は、地上の身体が死んだ後にもそのまま継続されるものではなく、それと本質的に異なるものである。地上のものはすべて死ぬということが、神の国に入るための不可避の前提である。ここでパウロは、イエスの宣教の言葉を用いて語っている。この死を免れるための力は、人間には全くない。死は現実に終わりであり、魂がそこを通って永遠の生命に入り行く門ではない(K・フェーツァー)。ただ神の新しい創造者としての活動のみが、過ぎ行かぬものを創造するのである。したがって、地上の生命と永遠とを直接に結びつけるものはなく、両者の間にはいかなる類似性もないのである。」(NTD新約聖書註解7 コリント人への手紙P319NTD新約聖書註解刊行会1974)

と記している。パウロは先に「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」(Ⅰコリ15:35-38)と語った。神の国を受け継ぐもの、それは神によって新しく創造された体であり、それは信仰によってのみ、成就される。

2023/5/30(火)担当 ラウジー満世師 創世記39:16-23 賛美 聖歌総合版631 聖歌493

 ポティファルの妻の悪意と策略によってヨセフは不当な扱いを受ける。本来、妻が訴えたヨセフの罪への相当の罰は死刑が妥当であったにもかかわらず実際には投獄にとどまっているところを見ると、ポティファルも妻の訴えを信じていたわけではないだろう。しかし悪意によって正しい人が陥れられ、上に立つ者の決断によって正しい者が不当に扱われることは現実社会でしばしば起こっている。信仰者であっても他者の悪意の犠牲になることがある。ヨセフはそのような境遇でも神が共におられ、恵みを受け、人々の信頼を得た。神は無実の罪で監獄に繋がれたヨセフを脱出させられなかったが、そのどん底の時にも主が共にいることを証明された。そしてヨセフのみならず監守や囚人にさえも明確に主の臨在を示された。

 人は苦境に陥ることを許さず、奇跡的に回避させてくださる神を求める。しかし神は不当にも苦境に落とされた人の誠実を通してご自分の力を示すことによって周囲の人々への主ご自身の証しとしてくださることもある。主は信頼に足る神である。共に居て下さる神に望みを置こう。

2023/5/31(水) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:51-53  賛美 聖歌(総)205 聖歌 236

 パウロは「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」と語る。「終わりの時に鳴り響くラッパ」という表現は黙示文学的な終末待望に常に見られる表現である。生きたままで終わりの時を迎える人々は皆、今とは異なる状態に変えられる。地上の、肉の姿のままで神の国に入ることはできないからである。朽ちるべきものが朽ちないものを着せられ、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。どのようにしてか、それは分からない。神が御存知である。私たちは信仰によってそれを受けるのである。

2023/6/1(木)担当 ラウジー満世師 創世記40:1-23 賛美 聖歌総合版516 聖歌498

 獄中でヨセフは二人の役人に出会い、夢を解釈した。ヨセフは気落ちする二人を気遣い、声をかける。夢を見た二人にヨセフはまず、解き明かしは神の御業だから、ヨセフ自身に夢の内容を尋ねた。夢の解釈は占い師や専門家ではなく、神がなさる。すなわち神を信じて知恵を求める者にその意味が開示されるという。ここにヨセフの神への信仰が表れている。この言葉に応じて二人がヨセフに打ち明けた夢をヨセフは解釈した。ヨセフは自身の無実と牢からの解放について王にとりなすことを求めるが、解釈の通りに給仕役に復職した時には、彼はヨセフのことをすっかり忘れてしまう。不思議である。

 ヨセフにとっては監獄で出会った給仕役が窮状を脱する手掛かりであり、神は彼を用いてヨセフを解放してくださるという大きな望みを持っただろう。にもかかわらず、まだまだ神への忍耐と服従の訓練が続く。苦境にあって神を責めず、疑わず、変わらぬ信頼と忠実をもって救出の時を待つことは容易いことではない。しかしこれが信仰の成長の時となる。

2023/6/2(金) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:54-57 賛美 聖歌(総)449 聖歌 447

 パウロ「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」と語る。イザヤは「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」(イザ 25:8)と語っている。ホセアは「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。」(ホセ 13:14)と語っている。また、パウロはテモテへの手紙Ⅱにおいて「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(Ⅱテモ 1:10)と語っている。神は御子イエスによって世の罪を取り除き、死を滅ぼし、死に勝利し、その恵みを信じる者のものとしてくださった。故に、私たちは神に唯、感謝するのである。

2023/6/3(土) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:58  賛美 聖歌(総)653 聖歌 608

 比類なき神の恵みと勝利を讃えたパウロは「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」と語って神への応答を求める。それは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはず」だからである。父なる神はご自身のみ旨に従い、罪人の救いのために十字架に死なれた御子イエスを復活させ、眠りについた人たちの初穂とならせてくださった。それ故、この御子に対する信仰によって復活の、今とは異なる状態に変えられる恵みに与るのである。それ故、私たちは動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に全力を注いで励んでいこう。私たちを信仰から反らそうとするサタンの業は巧妙であり、執拗であり、強力である。それらに捕われてはならない。しっかりとキリストを見つめつつ褒めたたえつつ歩もう。